第4話 不如求道 「道を求めるよりも」

 夜が明けた。

 音を聞くに、雨は小降りになっているようだった。

 少年は寝ぼけ眼を擦って半身を起こした。

 驚いたことに少年は昨夜の少女との接触の後に、眠りに就いていたらしい。

 何をしでかすか分かったものではなかった少女の前でお使いの品を傍らに眠りこけることができるとは。我ながら肝が据わっているのを通り越して脇が甘すぎる。

 慌てて辺りを見渡せば、そこは昨夜に登った門の上で、お使いの品もきちんと少年の手に抱かれていた。さらに探せば、昨夜に倉居悔乃と名乗った少女が、少年に背を向けて、少し離れた場所で手足を忙しなく動かしていた。どうやら屈伸運動をしているらしい。

「あの、あのー、悔乃、さん?」

 恐る恐る声を掛けた少年に、悔乃は振り返った。

 その口許の血は拭われていて、口の中にも何も含んではいなかった。

「おはようございます、お使いのお兄さん。いい朝ですね」

「そうかな」

 少年は灰色の空を見上げて首を傾げた。

「おはようございます、お兄さん。いい朝ですね」

 悔乃はそれには応えず、ハキハキとした口調で朝の挨拶を繰り返した。

「……おはよう」

 少年が気のない調子で挨拶を返すと心底、嬉しそうな笑顔を悔乃は見せた。しかしその顔は昨夜に肉を貪り食っていたのと遜色ない顔だったので、少年の身は強張った。

「今日はもちろん良い朝です。何しろ悔乃がたらふく喰えた翌日なのですから」

「そうなんだ。それは良かったね」

 半分本気で半分嘘の言葉を少年は口にした。

 悔乃がたらふく食えたかどうかなど、少年は興味がなかった。ただ悔乃の腹が膨れているのなら、昨夜見せたような食欲を、少年に向けて発揮することはないだろう。そういう願望に近い予想で少年は自分が食われることがなさそうだったから『良かったね』と言ったのだった。

 しかし少年の希望的観測は儚く素早く叩き壊される。

「うふふ」

 相変わらず、嘘っぽい悔乃の笑いに少年ははてなと顔を上げた。

「それにしてもお使いのお兄さん。あなたのそれ、お使いの品。とってもとても美味しそう」

 ああ、思い出した。

 昨夜のことを思い出した。

 思い出したくもないことを思い出した。


 昨夜、雨宿りと冒険心から門に上がった少年が見たのは、骸を貪る悪鬼だった。

 可愛らしいなりと人懐こい言動をしていても、その口はたしかに遺骸を食い散らかしていた。

「あなたはとてもおいしそう」

 悪鬼の身の毛もよだつようなそんな言葉に、少年は答えるすべもなく、立ち尽くしていた。そんな少年に、気さくそのものの微笑みで悪鬼は彼女の傍らの肉片を、少年に差し出した。

「食べます?」

「い、要らない」

 腹が減っていた少年もさすがのことに、顔をひきつらせながら少女の申し出を断った。

 とても上ずった絶え絶えのか細い声だったが、少女には届いたようだった。

「それは良かった。悔乃の食い扶持が減ったらどうしようかと思いましたよ」

 それだけあるのに、『悔乃』の食い扶持の心配をしているのか、この少女は。

「うふふ」

 どこか嘘っぽく笑って見せて、彼女はくわえていた骨をバリバリと噛み砕いて呑み込んだ。

「初めまして、名も無きあなた。私の名前は倉居悔乃。悪食上等・弱肉強食、喰らい喰いの倉居悔乃にございます。あなた様のお名前は?」

 口上を述べながら、少女は握手でも求めるように片手を少年に差し出した。

 その片手は当たり前のように血に汚れていた。

 名も無きあなたとこちらを称しながら、名乗ることを求めてくる、その言動の不一致に、少年がどう思うべきか迷っている隙に、悔乃はにじりより強引に少年の手を握ってきた。

 そしてにんまりと笑った。

「ひっ」

 少年は握られた手を払いのける力もなく、腰を抜かした。

「あらあら、ご安心を。いくら美味しそうとはいえ、悔乃さすがにそこまで食い意地張っていませんよ。もちろん、あなたが私に食べられたいというのなら話は別ですけれど」

「い、嫌です」

「そりゃそうでしょうとも」

 悔乃はようやく少年の手を解放し、すっと両手を広げた。

「あなた様にはまだまだ生きてもらわなければ」

 意味が分からなかった。

 そしてさらに意味が分からないことが起きた。

 悔乃の後ろの遺骸が蠢いた。

 少年ののどは一気にからからに乾き、呼吸は荒くただその蠢きを指さすだけで精一杯だった。

「あら、やだ、死に損ない」

 こともない様子で悔乃は振り返った。

「なに、あれ」

「なにって、ゾンビです」

 しれっと悔乃は怪異の名を明らかにした。

「あなたとお使いの品が美味しそうだからいけないのですよ」

 悔乃が少年に向かって文句を垂れる。

 本当に意味が分からない。

 ゾンビの一体が、少年に向かって飛びかかった。

 少年は思わず目をつぶり、その後のことは何も覚えていない。

 肝が据わっていたのではなく脇が甘かったのだ、という反省には意味がなかった。昨夜の少年はただ恐怖に耐えきれずに、気を失っただけだった。


 そして今、恐怖の一つ、倉居悔乃と少年は向かい合っていた。

 あれは夢だったのではないか。そう考えたくなるくらい、門の上は死人の血すら残らずきれいに片づけられている。

 しかし少年が昨夜に見たものが正しければ、悔乃が全部食べてしまったのかもしれない。

「君は何者なの」

「悔乃は悔乃ですよ。渇虜師匠のたった一人の弟子なのです」

「渇虜師匠って誰」

「師匠は師匠です。きっと今悔乃がいなくて心寂しい思いをしていることでしょう。ああ見えて一人では何もできない寂しがりなのです、昔から」

「ああ見えてと言われても」

 そんな人は会ったことも聞いたこともない。

「いつか会えますよ」

 別に会いたくもない。

「ゾンビはどうなったの」

「美味しかったです」

 予想通りの答えだった。

 ゾンビは美味しいらしい。人間とどっちが美味しいのだろう。

 少年とどちらが美味しくて、悔乃はゾンビを食べてなお少年を食べたいと思うのだろうか。


「うふふ」

 少年の気も知らず、悔乃は怪しく笑う。

「お兄さん、これからどうなさるご予定で?」

「どうって……」

 問われるまでもない。決まっている。少年のやるべきことは昨日から変わっていない。

 お使いの品を届けるのだ。

 少年はそれを完遂するまで帰れない。

 それが少年に貸せられた使命なのだから。

 少し時間を取られたが、少年は一刻も早くお使いの品を送り届けなければいけないのだ。

「お使いの品を届けるよ。それが僕の仕事だ」

「そうですか、ええ、そうでしょうとも」

 悔乃はしたり顔でうなずいた。

「それならば早く行くが吉ですよ、悔乃の腹が減りきる前に。お兄さん、お逃げなさい」

「うん、そうさせてもらうよ」

 そうして少年は悔乃に背を向けた。

 時折、警戒のために振り返りながら、少年はその場を後にし、梯子を下りた。

 悔乃はただ手を振るだけで、特に何もしては来なかった。

 外に出て見れば空は相変わらず雲が立ち込めていたが、雨はやんでいた。

 水捌けの悪い大地はぬかるんでいて、少年が一歩足を踏み出せばたちまちその足は泥に汚れた。それでも雨が止んでいるだけ有り難い。彼は自分にそう言い聞かせた。

 お使いの品を強く抱き締めて、今度は振り返ることなく、少年は道を歩き出した。


 少年が去った朱塗りの門の上、悔乃は道を見下ろしていた。

「さて、悔乃も急がなくっちゃ」

 師匠が寂しく彼女を待っているはずだった。

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