第3話 無与等者 「並び立つ者はなく」
雨降りしきる中、人気のない神社の石畳の階段を上り切ったところにある朱色の剥げた大鳥居の下に、二人の男が雨をしのぐように腰かけていた。
神様の通り道を開けてやるような神経など持ち合わせていない二人ではあったが、雨を避けるためなのか、はたまたお互いの距離感がそうさせるのか、鳥居の二本の柱の下で、道の端と端に思い思いに腰掛けていた。一人は顔に刻まれた皺からではなかなか年齢の読めない男で、二十代の頃と言われば納得いくし、四十がらみと言われても頷ける、奇妙な空気を醸し出した男だった。飾り気のない着流しに、ずいぶんと値の張りそうな毛皮を羽織っている。もう一人は十代の後半ぐらいの朴訥とした顔つきの青年で、こちらは旅支度のようなやはり地味な色味の着物に身を包んでいた。
「遅いな、悔乃のやつ……」
らしくもなく寂しそうに呟いた渇虜に、犬原と名付けられた少年は、苦笑で返した。
「どこかで迷ってでもいるんじゃないですか」
「それは万に一つもねーよ」
「そうなんですか?」
渇虜に間髪を入れずに自身の杞憂を否定された犬原は意外そうに首を傾げた。何せ、青年にとって倉居悔乃という娘は、道に迷わないどころか、道を歩くことすら不得手そうに見える娘だった。しかし、渇虜は普段通りのけだるそうな調子で、面倒くさそうに自身の考えを犬原に披露した。
「ああ。何せ、あの悪食、うまそーな飯のあるところは逃さねーんだからな」
「ありますか?うまそうな飯」
ここ数日の長雨のせいで雑草すら流れた、こんなじめじめした場所だ。素寒貧な二人組が待っているだけのこの場においては、さしもの悪食ですら、食事という雰囲気でもないだろう。
「あるよ」
簡潔にそう言って、渇虜は犬原に向かって顎をしゃくった。犬原は渇虜が面白くもない冗談でも言ったかのように愛想笑いをして見せた。
「僕、ですか?」
「あたぼーよ」
やはり覇気のない声で、渇虜は面倒そうに続けた。
「お前ほどの食材、あいつが見逃すはずもねー」
「うーん、悔乃さんの迷子の芽が潰れたとはいえ、それはそれで多分にぞっとしないお話ですね。迷子の危機から捕食の危機です。というか僕だけですか。渇虜さんはどうなんですか」
「俺は食えない奴だからさあ」
「食えない奴ですか……」
犬原は渇虜の言葉に納得しがたい表情を見せる。
「ふん」
何かを鼻で笑ったかと思うと、渇虜は身に着けていた毛皮を下敷きに、その場に寝転んだ。無造作そのものに、ぬかるんだ石畳に高級そうな毛皮が投げ出された。犬原は内心でひどく肝を冷やしながら、やんわりと渇虜を諭した。
「濡れますよ」
「はっ、今更だな」
犬原の注進に対し、渇虜は楽しそうに両腕を広げた。
「とっくの昔に、俺もお前も、さんざ雨に打たれちまったじゃないか」
「そりゃ、まあ、そうなんですけどね。不可抗力でなるのと自分でやるのは違うじゃないですか……。ああ、そう言えば前々から気になっていました。その毛皮って一体何の毛皮なんですか?ずいぶん暑苦しそうにも見えますが」
「知らね」
無頓着に渇虜は答えた。犬原は怪訝そうな顔をする。
「正体の知れないものを身に着けておいでで?」
「仕方ねーだろ、形見なんだから」
別段、仕方ないと思っているようには見えなかったが、渇虜の語った情報は犬原にとって初耳であった。
「形見、ですか?」
「話せば長くなることながら……。ああ、そうだ、そういや、あの日もこんな雨だった。悔乃が生まれたあの日も」
「はあ……?いまいち、お言葉と流れを理解しかねますが、その形見の品は、悔乃さんにゆかりのある方の形見なのですか?」
「ゆかりもクソも、この毛皮、元々は悔乃の兄貴のものさ」
「兄貴。お兄様。悔乃さんにはお兄様がいらっしゃったのですか」
「兄どころか、姉もいる。父もいるし母もいたんだぜ」
「お兄様、お姉様はともかく、ご両親がいらっしゃるのは当たり前のことでしょう」
「当たり前?どの口が当たり前なんてぬかしやがる」
「まあ、確かに。この僕にしたって、悔乃さんと渇虜師匠にお会いしなければ、あの大事な記念すべき思い出の出来事さえなければ、天涯孤独の身であったに違いありませんが。とりあえず、死んでいるにせよ、生きているにせよ、俺にだって何処かに両親がいることは間違いありませんよ」
「おーいおい、お前、あれと自分がおんなじだとでもぬかしやがるのか?」
心底、馬鹿にした顔で、渇虜は鼻を鳴らした。
「自分に親がいるからって、あの悪食悪鬼にも親がいて当然だと思うとは、お前の常識もたかが知れてやがるな」
「ひどい言いようですねえ。それが旅の仲間に向かって言い放つ言葉ですか」
「旅の仲間?そんなの俺にはいやしねーよ。悔乃は弟子だし、お前に至っては勝手に気づいたら同行してやがったってだけじゃねーか」
「あなたのお蔭で拾われた命ですからね。今、ついてくるなと言われても、僕は野垂れ死にする他ありません」
「けっ。しかしまあ、嫌な長雨だな。こういう時はいろんなものが腐って悪くなりやがる」
「はあ。僕は別に、雨は嫌いじゃないですよ、何せたった一つの大事な思い出の光景ですから」
「俺は大嫌いだ。こういう日は悔乃が生まれた日を思い出すんでな」
「さっきもおっしゃっていましたね。ええと、形見の品がどうこうとか……。悔乃さんのお兄さんが亡くなったのと悔乃さんが生まれた日が同じということなのでしょうか?」
「死んでねえよ」
「はあ、その日に死んだわけではない」
「違う。悔乃の兄貴・
「はあ」
間抜け面をして犬原は渇虜の様子を窺った。渇虜はさりとて動じた様子もなく繰り返した。
「悔乃の兄は死んじゃいない」
「でも、その毛皮、悔乃さんのお兄さんの形見なんですよね?」
「そんなことは言っていない。この毛皮は不悔の形見じゃない。兄の持ち物ってだけで、兄の形見じゃなきゃいけない道理はねーぜ」
「はあ。よく意味が分かりかねますがじゃあ誰の形見なんですか?」
「だから知らん。正体が知れない。ただあいつはこれを形見と呼んでいた。俺もそう呼んだ」
渇虜はつまらなそうに顔を歪め、毛皮をねめつけた。
「不悔はな、行方不明になったんだ。あれもこんな雨降る日だった。この世のものじゃなくなったんだ。神隠しだ。少なくとも、倉居の家の連中がそう判断した。そして俺は、これを譲り受けた。この得体の知れない趣味の悪い毛皮と、そして、倉居悔乃の庇護者という損極まりない役回りを一手に引き受けさせられたのさ」
「すみません、さっぱり分かりません」
「だろうよ。分かるように言ってねえもん。まあ、俺には悔乃をどーこーする義務があっからなあ。今更逃げも隠れも出来ねえ、まったくやってらんねえぜ」
「義務、ですか?」
「義務だとも」
「しかし、あなたが、たかだか課せられた義務のために動く方だとは思いませんでしたよ」
「そーだな。その通りだ。俺は俺の意志でこの義務を背負いこんだ。他の誰でもなく、俺のために、俺のせいで」
「俺のせいで、ですか。では何ですか、悔乃さんがあんな風になったのはもしかして、渇虜師匠のせいなのですか?」
「いーや、悔乃があんなんになったのは、別に俺のせいでも何でもねーよ。あいつはああなるべくしてああ生まれてきた。何せ、生まれながらにして
渇虜は語りながらここにはいない悔乃の顔を思い浮かべる。鬼とは程遠い見た目だけは可愛らしい小娘の顔を思い出す。
「それでも、ほら、才能ある奴にはさ、世界に向かって有益な働きをしてやる義務があんじゃんか」
「また義務ですか……意外と渇虜さん義務がお好きですね」
「ふん。そんなんだから、俺はあいつの面倒見て比較的まっとうな人格に仕立て上げようと身を粉にして頑張ってるわけさ」
「はあ、いわゆる調教ですか?」
「いいや調教ってーのは奇をてらいすぎててよくねえな。せいぜい言うなら、こいつあ食育だな」
「食育」
「そうさ食育さ。俺は奴を育んでやってんだ。あいつが喰いっぱぐれないようにな」
「いやいや、悔乃さんは何したって食いっぱぐれだけはしないでしょう」
「違いねえ」
ふはは、と大口を開けて笑い渇虜は起き上がった。
毛皮も着物も頭もすべてに泥がまみれていたが、気にする様子もない。
「帰ってこねえなあ、あのバカ」
「そうですねえ」
雨はまだ止まない。
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