第2話 一切恐懼 「すべてのおののく人々のために」
ある日の暮れ方のことである。降りしきる雨の中、その少年はやっとの思いで朱塗りの門にたどり着いた。彼はびしょ濡れだった。彼はお使いの途中だった。不幸にもこの急な雨に打たれてしまった。朱塗りの門の下、雨が上から降ってこないことを少年は確認した。両腕で抱えたお使いの品を、ぎゅっと胸に抱き締めて、少年はやっと人心地がついた。
「雨、止むのだろうか」
目下第一の心配事を口にして、少年はその場にしゃがみこんだ。彼が雨宿り場所として選んだのは郊外にそびえたつ巨大な門だった。この門は、真上からの雨は防いでいた。だが、地を這って流れ込む雨の成れの果てをせき止める能力は持たなかった。そのため、少年のしゃがみこんだ石段は濡れていた。少年のみすぼらしい芥子色の着物に雨の成れの果ては絶え間なく染み込み、その色を際立たせていった。石段元来の冷たさとあいまって、少年の臀部は容赦なく冷やされていった。しかし、少年は自分の体が冷えるのには頓着せず、ぼんやりと鼠色の雨空を見上げ続けていた。
人っ子一人、猫の子一匹、烏の子一羽とて、通らない往来に、少年は興味がないようだった。はたしてその目に何が見えているのやら、少年はひたすら空を見上げていた。
お使いの品を届けるまでは帰れない。それは分かっていた。しかし、この雨の中を行ったなら、お使いの品はその群青色の風呂敷の中までぐっしょりと濡れてしまうことだろう。
お使いの品は汚してはいけない。お使いの品は濡らしてはいけない。お使いの品は傷つけてはいけない。少年を遣わした主人はその三つを厳しく言明していた。主人の言葉を破れば少年はどんな惨めたらしい目に遭うだろうか。そうであるから、少年は突然に降り出した雨をうっとうしく思いながら、その朱塗りの門を目指したのだった。
そういった事情を思い返し、このまま雨が止まないのなら、野宿もあり得るかもしれないと、少年は少し憂鬱になった。その朱塗りの門にはいくつか、長居を躊躇させる要因があった。
何を差し置いても、そこは暗かった。厚く垂れこめる雨雲のせいで、まだ沈んでいる途中であろうはずの太陽は完全に隠れてしまっている。それだから、ただでさえ重い少年の心は余計に重苦しさを感じてしまっていた。
もう一つ上げると、そこは寒かった。少年は最低限の衣類しか身に着けずにそこにいる。少年のような立場のものには珍しいことではないが、このままでは少年は夜を明かす前に凍えてしまうだろう。
さらに鼻をひくつかせると、雨の湿った臭いとは別に、生臭いにおいがした。この雨で、誰かが何処かで何かの食材でも腐らせたのだろうか。
見える範囲に人家の見当たらないこの場所で、それは少し奇妙なことのように思えた。少年のような奇妙な立場の者もいるのだろうと、少年はその奇妙さを片付けた。そして、『食材を腐らせた』という発想は、少年に自分自身の問題を思い起こさせた。
「腹が、減ったな」
雨音に紛れるほど小さくつぶやいた通り、少年は空腹だった。
そうは言っても少年は空腹には慣れていた。空腹を覚えたところで解決する手段を持たないまま使役される。それは少年の常であった。しかし、今、少年には忙しい平時と違い、『空腹を感じる』以外にやることがなかった。
その事実が、少年をいつも以上に苦しめていた。きりきりと腹が空腹に痛んだ。
「探してみたら何かあるだろうか」
空腹に耐えかねた少年は、自分に言い聞かせるようにそう言った。その前向きな期待を元に自発的な行動に移ることを決めた。
お使いの品をしっかりと抱え直して、彼は立ち上がった。尻がぐっしょりと濡れていた。この短時間でその小柄な体はずいぶんと冷えてしまっていた。それに気づいたところで対処のしようもないので、少年はひとまず寒さを忘れて、上を見た。朱塗りの門の頑丈な横木が目に入った。
お使いの品を濡らすわけにはいかない。それは少年が第一に守らなければならない条件だった。そのためにはこの屋根のある場所から出る訳にはいかない。ならば、食物の探索に赴くにあたって、目下少年が向かうべきは、少年の座り込むそこより上、朱塗りの門の内部しかないようだった。邑を守るようかのようにそびえ立つその門の内側には、その上の楼に出入りするための梯子が設置されていた。今となっては形骸化したが、この朱塗りの門、元は物見櫓も兼ねていたというわけだ。そこに食料がある可能性はとても低く思われたが、不意に湧き出てきた冒険心が、結果はどうあれその梯子を上ってみようと少年の背中を押した。
お使いの品を腕に抱えたままでは梯子は登れない。そのため彼はお使いの品の風呂敷を肩に背負い直した。打ち捨てられた場所にしては鮮やかな丹色を保つ梯子に、自分の黒く汚れた裸足の足を、掛けて汚すのはいささか躊躇われたが、しかし、少年はそれを敢行した。梯子は少年が登るたびに、ぎしぎしと音を立てた。それでもそれは思いの外しっかりと設置されていたので、少年は落下の恐怖に怯えることなく物見櫓の上階へと辿り着いた。
門の上は暗闇であった。屋根も破れた門の事、普段なら月明かりも差し込もうが、今日のこの雨空では、星明かりも望めなかった。
安易に足を踏み出せば、破れた天井と同様、破れた床を踏み抜いてしまうかもしれない。それを恐れて、少年が懸命に暗闇に目を凝らすと、二三歩行った先に、何か丸い物体が床に落ちていた。
はて、何ぞやと、一歩、近づいてみると、それがごそごそと動いていることが分かった。
すわ獣かと、警戒心に身を強張らせながら、それをじっと見ていると、ごそごそという物音にまぎれて、違う音が聞こえてきた。息をするようなはふはふという音と、それからもぐもぐと何かを口に運ぶ音だった。
生き物が、背中を丸めて、食事をしていた。
明かりのない空間で、その相手が何者か、それを判別するために、少年はもう一歩、勇気をもって踏み出した。
そこに見えるのは、赫色の背中だった。
自然の動物にはありえない、目を引く色。
そこで少年はそれが人間の背中だとようやく気付いた。
少年は、非常に驚いた。
どうして、このような所に人がいるのだろう。少年は自分の立場も忘れて訝しんだ。
自分と同じように、雨を避けてきたのだろうか、何かを食んでいるようだが、いったい何を食べているのだろう。
ちょっと分けてくれないだろうか。
彼は呑気にそう思った。
そして彼はなんとなしに足をもう一歩踏み出した。
足元に小枝でもあったのか、ピシッと下から音がした。
勢いよく、相手はこちらを振り向いた。
相手は少年と近い年の頃の少女だった。
赫色の着物が汚れるのも厭わず、彼女は、薄汚れた床に座り込んでいて、その手と膝に不格好な形の塊を抱えていた。
「良い月夜ですね」
この状況に、あらゆる意味で的外れな言葉を口にして、少女はうふふと嘘っぽく笑った。
雨降りの外を思い出したが、少年にはそれは違うと反論することは出来なかった。
ただ少女の抱える塊に、目を奪われていた。
本当は、目を反らしたかった。
それは、骸だった。
何か腐らせたのではないか、そう思っていたのは、食べ物なんかではなかったわけである。
しかし、ある側面ではその考えは正しかったと言える。なぜなら少女はその骸を喰っていたのだから。
少女は口の周りを汚していた。まるでその見た目は食事をするのも不器用な、あどけない子供そのものではあったが、その現実は、身も凍るような光景であった。
戦慄し立ちすくむ少年に、少女はゆっくり近づいた。
逃げることはできなかった。
「あなたはとてもおいしそう」
少女がほほ笑む。
「ああ」
肯定なのか恐怖なのかただ口に出しただけなのか、少年の口から力ない声が漏れる。
空腹が少年に襲い来る。
空が闇へと染まっていく、そんな時刻のことであった。
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