第305話 静かな怒り


「……」


 滴る血液。


 それを拭うことなく、レイはひたすら戦場を走り続けていた。リディアの後方にぴったりと張り付くような形で、二人は戦場を駆け抜ける。


 互いに使用するのは冰剣。


 それはすでにこの極東戦役の象徴にもなっている。


 冰剣の魔術師──リディア=エインズワース。


 すでに彼女は英雄と呼ばれ始めていた。幾多もの敵を屠り、血に塗れながら前線を支え続ける。たとえ千人の敵に囲まれようとも、リディアはたった一人で圧勝できる。単機において戦術兵器にも匹敵する彼女は、もはや敵など存在しない……そう思われている。


「レイ。終わったか?」

「はい」


 周囲の世界は一面、氷の世界と化していた。氷の中に閉じ込められている敵は、すでに絶命している。レイはそんな死体を見ても、もう何も思うことはなかった。


 ただただ、この戦争が早く終わればいいと。


 殺している数と殺されている数を比較すれば、きっと王国軍の方が勝っているのだろう。しかしそんなものに意味はない。どちらかが降伏し無ければ、この戦争が終わることはないのだから。


 ハワードの死を経てレイはさらに研ぎ澄まされていった。その心が完全に壊れることはなかった。ハワードの意志を受け継ぎ、彼は進んでいる。リディアもまた同様だった。


 二人は数々の死に触れてきた。


 それは敵だけでなく、仲間の死も含まれる。


 すでに心は擦り切れている。


 二人とも分かっていた。この過酷な戦場ではまともな心など、感情など持つことは許されない。ただ自分を押し殺して、まるで機械のように作業をこなしていく。それこそが正解であると。そうしなければ、自分を保つことなどできなかった。


「レイ。戻るぞ」

「はい」


 レイの存在は仲間の一部には知られている。だが、敵国にはまだ彼の存在がはっきりとは伝わっていない。それはレイと接敵した兵士は、全てが死んでいるからだ。


 英雄の裏には、また別の強敵が存在していることを……まだ敵は知らなかった。そう、七賢人セブンセイジを除いて。


 そうしてレイは今日も進む。


 揺るがない決意を心に刻みながら。



 ◇



 国境にある森林。


 ここでは今まで数多くの戦闘が繰り広げられている。無造作に転がっている死体など珍しいことではない。


 その中を一人の男性が歩いていた。


 軍人ではないようで彼は真っ黒なスーツを身に纏っていた。一見しただけでも、それが上質なものであるというのは理解できる。


 長い茶色い髪を後ろでまとめ、彼は無表情のまま進んでいく。


 するとちょうど視線の先に少女を発見した。金色の髪を左右の高い位置でまとめているのは、フィーアだった。あれから彼女は単独で王国の兵士を殺し続けていた。


 しかし、リディアやレイと接敵することはない。まるで二人から隠れるようにして、台頭していたのだ。


 そして、互いに視線を交わすと彼は──マリウスは口を開いた。



「あなたが七賢人セブンセイジですか?」



 尋ねる。すると正面にいたフィーアはそれに答える。


「あら、知っているの? どうやらそちらも無能な集団ではないようね」

「はい。優秀な教え子がいますので」

「あっそ。で、七大魔術師よね。あなた」

「はい。まずは自己紹介を。七大魔術師が一人──マリウス=バセットと申します。一応、燐煌の魔術師とも呼ばれています」

「……燐煌。予想通り、この戦場に他の七大魔術師も来ているんでしょ?」

「さぁ。どうでしょうか?」


 肩を竦めるようにしてマリウスはとぼける仕草を見せる。その様子をフィーアはじっと見つめる。一挙手一投足を見逃さないように。


「あなた分かっているんでしょう? どうしてこの戦争が起きているのか?」

「そうですね。あなたも私もある種の到達点だ。そして、世界真理を開くためには犠牲が必要になる……でしょうか?」

「……ふふ。ふふふ! そう! これは、私たちのための戦場なのよ! あぁ……やっと。やっと雑魚を狩る時間が終わった。ねぇ、あなたは私を楽しませてくれるの?」


 嗤う。


 不適に笑いながら、彼女は両手を広げてその歓喜を表現する。目的のためならば、どれだけの人間を殺しても構うことなどない。フィーアはそう言っているのだ。今までの戦闘は全て前座に過ぎない。


 七賢人セブンセイジと七大魔術師が衝突するために、この極東戦役は開始されたのだから。


「私はこれでも元教師でして。楽しませることは分かりませんが、教えることはできますよ?」

「何? 私に授業でもしてくれるの?」

「残念ながら、あなたにお教えることはありません。これから先は、殺し合いになりますから」


 溢れ出る第一質料プリママテリア


 マリウスの体からは金色の粒子が溢れ出していた。それを見てフィーアはニヤリと笑みを浮かべる。


「あぁ……あなた、とっても強いねぇ……いいよ。最高だよっ!」


 歪む。


 マリウスがいた空間がぐしゃりと歪む。


 今まで数多くの人間がこれによって殺されてきた。しかし、マリウスはそれを難なく打ち消した。


「なるほど。とても凶悪な魔術をお持ちのようですね」

「……お前、何者だ?」


 フィーアの余裕が一気に消え去る。今の攻撃で確実に一本、腕を持っていくつもりだった。だというのにマリウスはその攻撃を無効化したのだ。


「ただの元教師ですよ」

「ほざけ。私の攻撃を防げるなんて、あり得ない」

「そうでしょうか? 全ての現象には理屈があります。それを辿っていけば、たどり着ける場所があるのです。一見すれば、私たちが使用する魔術は無秩序に見えます。しかし、コード理論の体系化によってそれは暴かれました。世界はある法則によって成り立っているのです。しかし、コード理論とは真理を遠ざける理論に過ぎません。その本質は別のところにある、というのが私の結論です」

「……お前、まさか知っているのか?」

「さて。何のことでしょうか?」


 マリウスはスッと右腕を上げる。


 そして、人差し指と親指で虚空を掴むとそれをスッと右に引いた。


 瞬間。淡い閃光がフィーアの左手を貫通した。


「──ッ」


 ボタボタと零れ落ちる血液。彼女はすでにマリウスをただの標的として捉えていない。自分と同格か、それ以上の存在だと思っている。


 一瞬の出来事。しかし、この一瞬でフィーアはマリウスの底知れなさを理解する。燐煌の魔術師は、明らかに他の七大魔術師とは一線を画していると。


「……燐煌の魔術師。お前の情報が一番掴むことが出来なかったが……一番近い位置にいるな?」

「果てさて。何を言っているのやら、私には分かりません。でもあなたはここで死にます。それが私がこの場にやってきた意味です」


 繰り広げられる魔術戦。


 フィーアもマリウスの魔術の兆候を理解したのか、直撃は避けるようになっていた。一方でマリウスは無傷のままだった。空間は確実に歪曲している。だというのに、まるでそこに実体がないかのようにすり抜けていくのだ。


 流石にこれにはフィーアも焦り始めていた。


「魔術を使う際は冷静に。これは基本ですよ。どうにもあなたは焦っているように見えますね」

「うるさいッ──!」


 感情のままに吠える。


 一見すればまだ致命的な攻撃は互いに当たっていないため、互角にも見える。


 けれどマリウスは余裕の表情を浮かべ、フィーアは焦っているのか額には汗が滲み始めていた。


「人の死とは、何なのでしょうか?」


 マリウスは歩みを進める。


「どうして我々は死を恐れるのでしょうか。その問いの答えは本能的な部分に帰結すると私は思います。しかし、人は死に意味を見出します。その意味を、踏みにじるかのような今までのあなたの行いは許せるものではありません。いたずらに命を奪い続けることを許容するわけにはいかないのです。これ以上、慟哭を広げるわけにはいかない」


 悠然と、そして優雅に。まるで午後のひと時を楽しむかのように、彼はゆっくりと歩みを進めていく。歪曲する空間をまるですり抜けるように。


「さて、あなたはどうやら恐怖しているようですね。今まで数多くの命を奪ってきて、自分がその立場になってやっとその重さが理解できましたか? でも安心してください。いたぶるような真似はしません。あなたには償ってもらうだけですから。その罪を。そして私も罪人になりましょう。あなたを殺すことで──」


 それは静かな怒りだった。


 マリウスは戦死した教え子の名前を全て記憶している。そのリストを見て、彼は一人一人との思い出に浸り、静かに涙を流していた。


 その中にはハワードもまた含まれていた。


 最後まで勇敢に戦い、散っていった教え子。学生の時から優秀であり、将来は偉大な魔術師になるとマリウスは思っていた。しかし、もうこの世界にハワードはいない。


 その慟哭を背負い、彼はフィーアと向かい合う。


「……くそッ!」


 彼女は不利だと悟ったのか、逃げる動作を見せる。しかし、それを見せるようなマリウスではない。


 彼は両手を広げると、それを点と点を結びつけるようにして交差する。まるでそこには一つの線が描かれていくようだった。



「──完全隔離領域アイソレーションスフィア



 瞬間。


 世界は真っ白な領域に侵食されていく──。

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