第270話 キャロルの教育


「んにゃ……!!」


 奇妙な声を上げて起床するキャロル。現在は一人暮らしをしているが、隣にはアビーとリディアが住んでいるのは厳密には一人暮らしとは言い難い。


 軍人になってすでに一年が経過した。士官学校を早期に卒業し、特殊部隊での活動にも精力的に取り組んでいる。


 軍の評価としては、キャロルは決して低くはない。特に俯瞰的に状況を把握する能力は高く、実際にヘンリックと共に部隊の作戦の立案などもしているほどだ。


 その言動には難ありだが、その能力の高さは評価されている。


「ふんふんふ〜ん」


 今日も今日とて美を追求することに妥協などしない。それがたとえ軍の中であっても、キャロルはいつものようにメイクをしていく。


 と、ここまでいけばいつもの日常なのだが、最近キャロルはある楽しみがあった──それはレイの存在だった。


 元々人の世話をするのが好きであり──もっとも、その重さゆえに男性にはよく逃げられているのだが──レイの世話をするのが、ここ最近のメインの活動になっている。


 今日は休日。


 リディアとアビーとはちょうど入れ替わるようにして休みになってしまったので、今日はキャロル一人でレイの世話をすることになっている。


 そしてリディアの部屋へと入っていく。合鍵を持っているのでそれを使って室内に入る。


 リビングに向かうと誰もいないので、キャロルはレイのために用意された部屋にいると思ってそこに歩みを進める。


 すると、レイは椅子に座って書物に向き合っていた。その小さな右手には鉛筆が握られていた。


「レイちゃん。おはよう」

「……おはよ」

「何してるの?」

「……かだい」

「あー! アビーちゃんが出してる課題ねっ!」


 レイの教育に関してはリディアが運動面、アビーが勉強面、キャロルがその他諸々を担当している。特殊選抜部隊アストラルの他のメンバーはまだ時期ではない、ということでレイとの面識はない。


「ふむふむ。キャロキャロも教えてあげようかなーってあれ……」


 じっとレイが書いている数式を見つめる。それを見て、レイがしているのは子どもが取り組むような算数ではないことを理解する。むしろそれは、中等部レベルの数式だった。


「え。レイちゃん、これ分かるの?」

「……うん。教えてもらった」

「ふ〜ん。そ、そうなんだぁ……」


 実際のところ、キャロルは内心では焦っていた。


 ──アビーちゃん!? まだ報告書見てないけどっ! レイちゃんめっちゃ勉強できるのっ!!?


 運動ができるのはその目で見ていたので知っているが、まさか勉学の方もここまで優秀とは思っていなかったので焦ってしまう。


 が、それを表に出すことなくキャロルはレイの隣に寄り添う。


「じゃ、キャロキャロは隣にいるから。頑張って課題を終わらせよっか?」

「……うん」


 小さな頭を前に揺らして、レイは再び問題に取り組む。


 そんな彼の様子をキャロルはとても嬉しそうに見つめる。


 そして時刻が正午になった頃、キャロルはレイのために昼食を作る。リディアの部屋の冷蔵庫はもはやキャロルが管理していると言ってもいいので、そこには十分な食料が入っていた。


 キャロルは手際良く調理を開始すると、あっという間にカレーを作り上げてしまった。レイが一人の時でも大丈夫なように、多めに作っておく。


「はーい! じゃあ、レイちゃんどうぞ」

「……いただきます」


 しっかりとそのように言葉にして、レイはスプーンを使ってキャロルの作ったカレーを頬張る。


「美味しい?」

「……うん。おいしい」

「うんうん。いっぱい食べてね?」

「……うん」


 レイは前よりは食欲が出てきたのか、三食しっかりと取るようになっていた。といってもその量はまだ少ないのだが。


「……ごちそうさま」

「はーい。お粗末様でした〜」


 そしてキャロルはその食器を持って行こうとするが、レイがその皿をパッと取ると椅子から飛び降りた。


「あれ? どうかしたの?」


 思わぬ行動にそう尋ねてみる。するとレイはキャロルのくりくりとした大きな双眸をじっと見つめてこう言った。


「……もってく。いつもつくってくれて、ありがとう」

「──────────ッ!!」


 声にならない悲鳴を上げる。キャロルはあまりのレイの尊さに、その場に崩れ落ちそうになる。改めて、その愛らしい姿に完全にキャロルは虜になってしまっていた。


「? どうかしたの……?」


 心配そうにレイが覗き込んでくるので、キャロルは平静を装って彼に感謝を告げる。


「レイちゃん。ありがとうね」

「……うん」


 その後。


 キャロルとレイは二人で街に買い物をしに向かった。元々レイをあまり外に連れ出すのは良くないのではないか、という話も出ていたが最近は調子も良さそうなのでこうして外に出る機会は多くなっている。


 手を繋いで二人で歩いていく。


 特に会話があるわけではないが、この時間はキャロルにとって本当に特別なものだった。そして食料の買い出しを済ませると、近くの公園にやってくる。


 二人で並んでベンチに座ると、キャロルはレイに話しかける。


「レイちゃん。今日は晴れてて気持ちいいね」

「……うん」

「そういえば、リディアちゃんとまた新しいスポーツするの?」

「……うん」

「そっかぁ。レイちゃんはとっても運動が得意だもんね! キャロキャロ驚いたよ〜っ!」

「……運動はすき」


 と、些細なやりとりにはなるがレイとキャロルはそんな話を続ける。そしてちょうど日も暮れようかとしている時間になったので、二人で手を繋いで自宅へと戻っていく。


 眩い夕方特有の光に照らされながら、家に戻ると夕食の前に一緒に入浴しようという話になった。


 レイはリディアやアビーとも一緒に入浴している経験があるが、三人の中でおそらくキャロルが一番レイと一緒に入浴している。


「レイちゃん。痒いところはない?」

「……うん」


 わしゃわしゃとシャンプーを使ってレイの頭を洗う。そしてその体も綺麗にすると、次にキャロルは自分の体を洗おうとするが……。


「? レイちゃん。どうしたの?」


 レイがじっとキャロルのことを見つめている。そして彼は思いがけないことを口にする。


「……背中、あらう」

「──────────ッ!!」


 再びキャロルは言葉で表せない感情に支配される。今まで献身的にレイに接してきたが、今日はどうにもレイが積極的なのだ。その事実に彼女はただただ喜んでいた。


「えっとじゃあ、お願いしようかな?」

「……まかせて」


 そうしてレイがキャロルの背中を流した後に、二人で一緒にお湯に浸かる。


「ふぅ〜。気持ちいいねぇ〜」

「……うん」


 その小さな背中を見つめて彼女はふと思索に耽る。レイが見てきた凄惨な光景はきっと、彼の心に大きな傷を残している。それはきっと一生消えるものではない。


 でもだからこそ、それに負けない強い心を育てることができるように支えていくべきだと……そう考えていた。


「ねぇレイちゃん。今日はどうしてキャロキャロに色々してくれたの?」

「……」


 レイは答えない。


 ただじっとお湯に浸かっているだけ。キャロルも別に無理して返事しなくてもいいよ、と告げるとレイは小さな声でこう言った。


「……いつもいろいろとしてくれるから。おかえしに……」

「レイちゃん……」


 その言葉を聞いて、胸の前でギュッと手を握りしめる。


 思う。きっとレイはまだ慣れない環境で精一杯なのだろうと。全く知らない女性三人に囲まれて成り行きで暮らすことになったが、色々と彼なりに考えているのだろうと。


 そんなレイの言葉を聞いて、キャロルは思い切りレイに抱きつく。その豊満な胸で彼を包み込むと、彼女はこう言った。


「レイちゃん。レイちゃんはきっと、とってもいい男性になるよ!!」

「……そう?」

「うんうん。きっとたくさんの女の子にモテモテになるよーっ! キャロキャロが保証してあげる。それにいつかキャロキャロが初めてをもらってあげるね」

「……うん」


 レイはその言葉の意味をよく分かっていないようだが、彼の言葉は少しだけ明るいような……そんな気がした。




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