第271話 アビーの教育


「……よし」


 早朝。アビーの目覚めは早い。


 彼女は朝が強く、リディアと違ってすぐに起きる。今日の予定は休日なので特にはないが、ちょうど入れ替わるようにしてリディアとキャロルは仕事が入っているので、今日は彼女がレイの世話をする予定である。


 すぐに浴室に向かうとシャワーを浴びる。そして、準備をある程度整えるとリディアの部屋へと向かう。部屋は隣なのですぐに到着し、合鍵を使って室内にはいる。


 するとリビングではレイが一人で歩いている姿が見えた。


「? レイ、何をしているんだ?」


 と、そう声をかけながら近づくとテーブルにはカップが置かれていた。そのカップからは、淹れたての紅茶のいい香りが鼻腔を抜けていく。


 明らかにこれはリディアが準備したものではないのは自明。そもそも、紅茶の茶葉はキャロルが買っているものであり、淹れるのはキャロルかアビーしかいない。

 

 その中でこれが準備されているということは……。


「レイ。私のために準備してくれたのか?」

「……うん。来るってきいてたから」

「そうか。では、いただこう」


 席についてアビーはレイの淹れてくれた紅茶を飲むことにした。レイといえば、対面の席にちょこんと座ってじっと彼女の様子を窺っていた。


「うん。美味しい。レイは紅茶を淹れるのが美味いな。キャロルに教えてもらったのか?」

「……ううん」


 首を横に振る。ということは、レイは誰に習ったのか……と考えるがアビーは思い出す。彼はすぐになんでも真似ができてしまう。その再現性はリディアとテニスをしているときにしっかりとその目でみた。


 ということはアビーやキャロルが淹れているのを見て学習したということだろうか。


「もしかして、見て覚えたのか?」

「……うん」


 頷く。その様子を見て、彼女は「そうか」と微笑みながら声を漏らす。


 はっきり言ってアビーはリディアほどレイに何かを感じ取っているわけでもないし、キャロルほどレイを愛おしいと思っているわけでもない。初めはレイが孤児院やどこかの家の養子になることを勧めていたほどだ。


 いた、その考えは今もあまり変化はない。自分たちのような存在と一緒にいるべきではない……と考えるが、レイには才能がある。


 それはアビーには推し量ることのできないものだが、リディアは分かっているようだ。そのため彼女もレイのことに関してはリディアに任せている。


 レイが弟子となったことでリディアにもいい影響が出ているのは見ていてよく分かるからだ。


「よし、レイ。今日も勉強するか」

「……うん」


 そしてレイのために用意された部屋に向かうと、アビーはメガネをかける。彼女は持参した教科書をレイに渡すと、まるで教師のように授業を開始する。


 教員としての資格を持っているわけではないが、アビーは部隊の中でも一般教養は飛び抜けて優れている。魔術の知識は言うまでもないが、総合的な知識量ではおそらくはアビーがトップだろう。


 秀才の中の秀才。それこそが、アビー=ガーネットだからだ。


「ここの数式は──」

「……やってみる」


 一通り解法を教えると、レイは黙々と問題に取り組む。そんな様子をじっと見つめるアビー。


 初め教えたときは、それはもう驚いたものだった。レイの学力は同年代よりも少し劣るぐらい。詳しい話は聞いていないが、おそらくは学力的な意味での教育を受けていないようだった。


 だからこそ、少しずつペースを考えていこうと思っていた。だがレイは異常なまでの飲み込みの早さと理解力を兼ね備えていた。


 それだけならばまだ秀才で済まされるが、彼は数日後に復習をしても絶対に同じ問題は正解する。


 理解力だけではない。記憶力もまたレイは抜群だった。しかしそれは、考えてみれば頷けることだった。そもそも運動にせよ何にせよ、再現性というのは自身の記憶から想起されるものである。


 スポーツの場合は手本となる存在──この場合は、リディアを指す──を見て、それを真似ることから始める。それは自分の記憶から、相手のした行動を思い起こして再現しているのだ。


 因果関係があるわけではないが、レイの総合的な能力の高さはある程度の相関関係があるとアビーは考えている。


「……おわった」

「よし。採点をしよう」


 赤ペンを持って採点をしていくが、全て正解。すでに学習内容は中等部の領域にまで近くなっている。義務教育の範囲を終えるのは──科目の数にもよるが──もうすぐだとアビーは思っていた。


「よし、よくできたな」

「……うん」

「昼食を取ろう。何か食べたいものはあるか?」

「いっしょに……」


 彼は小さな声で何かを主張しようとする。それを感じ取ったビーは優しい表情で再び問いかける。


「何かしたいことでもあるのか?」

「……一緒につくりたい。料理も勉強したい」

「そうか。それはいいことだ。よし、レイ。今日は料理も教えよう」

「……ありがと」


 その瞬間、アビーは言葉にできないような感情に苛まれる。キャロルがレイのことをずっと愛らしいと連呼していた時は理解できなかったが、彼女は知った。


 きっとこの感情こそが、母性と呼ぶべきものなのだと。


 もちろんアビーの自制心はかなり高いので、グッと抑制してレイを台所へと連れていく。


 そこでまずは包丁の扱い方を教える。


「いいか。食材を切る時は、こうやって手を丸めるんだ」

「……こう?」

「そうだ。それで、こうやって切っていく」


 手際良くアビーは千切りキャベツを作っていく。今日の昼食は唐揚げでも作ろうと思っていたので、その付け合わせの野菜だ。


 それをじっと見つめると、レイは「……やってみる」と呟いて包丁を恐る恐るキャベツに当てる。また今は、レイは椅子の上に立って調理をしている。


「……う、むずかしい」

「こればかりは慣れの要素が大きい。まずはゆっくり、手を切らないように注意するといい」

「……うん」


 流石のレイも包丁捌きは普通の子どもと同じようだった。


 その後、アビーは鳥もも肉を一口大に捌くとそれを油で揚げていく。流石に揚げ物は危ないので、レイにはテーブルで待ってもらっている。


 今回は夜に帰ってくるリディアとキャロルの分も先に作っておく予定だ。そして、全ての鳥もも肉を揚げ終わるとそれをレイの元へと持っていく。


「では、いただきます」

「……いただきます」


 朝と同じように、対面に座って食事を開始する。レイはパクリと揚げたての唐揚げを食べると、少しだけ笑みを零した。


「……美味しい」

「それは良かった。さ、たくさん食べてくれ」

「……うん」


 特に口数が多いわけではない。コミュニケーションも問題なく取れているが、何か特別な縁を感じているわけでもない。


 しかしどうしてだろうか。アビーはレイの様子を見ているだけで、心が落ちつくような気がしている。


 特殊選抜部隊アストラルの活動は今は落ち着いているが、それまでは紛争地帯に介入したりなど過酷な任務が多かった。


 そんな中で出会った少年とこうして食事を共にしているなど不思議なものだ、と彼女は思う。


「……ごちそうさま」

「よく食べたな。こちらとしても、嬉しい限りだ」


 残った食器を台所へと運ぼうとすると、レイもまたアビーと同じようにその食器を運んでいく。


「レイ。別に私がやるからいいぞ」

「……お礼。お手伝い、したい」

「────────ッ!!」


 先ほどとは比較にならないほどに、その胸中がある感情によって満たされる。今回はあまりにも強烈だったので、アビーは思わずバランスを崩してしまいそうになる。


「……? だいじょうぶ?」

「あ、あぁ。大丈夫だ。ありがとう、レイ」


 アビーは思った。


 あぁ、きっとレイは将来数多くの女性を泣かせるような存在になるかもしれない……と。


 

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