第144話 私たちの想い


「お姉ちゃん。私ね、レイと付き合うことにしたわ」

「え……?」


 始まった。


 この場はマリアに任せている。自分に任せて欲しいと、覚悟を決めた瞳でそう言ったからだ。


 俺は静かに、この場を見守る。


「……そ、それは本当に?」


 レベッカ先輩は、マリアにではなく俺にそう尋ねてきた。


 もちろん、頷く。それが嘘だと分かっていても、そうするしかなかったから。


「ごめんねお姉ちゃん。一応報告しておこうと思って、さ」

「そう……そうなのですか……」


 肩を落として、俯く。


 だがすぐに笑顔を作ると、いつものようにレベッカ先輩は振る舞い始める。


「お、おめでとうございます! その……マリアにはずっといい人がいないかと思っていたので、嬉しいです! レイさん。これからマリアをよろしくお願いしますね?」

「はい。もちろんです」


 先輩が動揺しているのは分かっていた。


 しかし、俺にできるのは……この状況に流されることだけだ。


「ま、レイが一般人オーディナリーってことに突っ込んでくる奴もいると思うけど。別にいいわ。だって私たちはこんなにも愛し合っているんだから」


 ギュッとマリアが俺の体を抱きしめてくる。

 

 俺もまた、彼女と同じようにその体を抱きしめる。


 その姿を見た先輩はギュッと拳を握り締めると、踵を返す。


「では私はこれで、失礼します……」


 その瞬間。マリアはさらに言葉を続けた。



「お姉ちゃんはいいよね。私が持っていないものをずっと持ってた。だから私は、幸せになる。自分の意志で、自分で選んだ幸せを手に入れる。でもいいよね? だってお姉ちゃんは、なんでも持ってるから。婚約者は自分では選べなかったけど、あの人もいい人だし、家柄も問題ない」

「……」



 初めて見た。


 レベッカ先輩のその瞳には、怒りが含まれていた。


 瞳だけではない。その相貌は怒りによって、ゆがんでいる。


 とてもいびつに。


 先輩はずっと優しい人だと思っていた。でもそれはやはり……勝手にそう思っているだけだ。人間には喜怒哀楽がある。


 怒っていても、不思議ではない。


 しかしそれでも、先輩の怒りは尋常ではなかった。


 憤怒。


 先輩の怒りは、まさにそれだった。



「何? 文句でもあるの?」



 煽る。


 俺から離れると、マリアはズカズカと歩みを進めてレベッカ先輩を見下すようにして、声をかける。


「お姉ちゃんは昔からそうだった。私が欲しいものを、ずっと持ってる。だからいいよね? ねぇ、なんとかいいなよ」

「……」


 先輩は俯いて震えている。


 その雰囲気は、あまりにも危うい。


 怖い、とも感じる。


 マリアはそんなレベッカ先輩に対して、真正面から向き合う。





「私がッ!! 私がどんな想いで過ごしてきたか、知らないくせにッ!!」





 怒声。


 声を荒げる。


 いつもの先輩は、ここにはいない。


 怒りに身を任せて、マリアに罵声を浴びせる。



「は? 知るわけないじゃん。だからなに?」

「あなたはいつもそうッ! 私の影に隠れて、逃げているだけじゃないッ!!」

「なにそれ。私も辛かったんだけど? お姉ちゃんとずっと比較されて、さ」

「それは私も同じよッ! 辛かったッ! ずっとずっと、ずっと辛い思いをしてきたッ! でもそれは、マリアの為だと思ってッ! そう思っていたのに……そんなことを言うなんて、信じられないッ!」



 ふぅ、ふぅ、と呼吸を乱すレベッカ先輩。


 瞬間。


 パシンと頬を叩く音が聞こえてきた。


「え……?」


 それはマリアが、レベッカ先輩の頬を右手で叩いたのだ。


「そんな感情的になって、ばっかみたい。自分で勝手にしてきたことでしょ? いまさら私にそんなこと言われても、困るんだけど?」

「……このッ!!」


 レベッカ先輩も、マリアの頬を躊躇なく叩いた。


 真っ赤に腫れ上がる互いの頬。


 マリアは冷静に見つめる。感情によって昂っている先輩を。


 だが足りない。まだ、届かない。


 俺は苦しかった。こんなことを望んでいたわけではない。こんなことをしたいわけではない。


 でも、さらに先輩を追い詰めないといけない。


 苦しい。俺も、どうにかなってしまいそうだ。


 そして、拳をギュッと握り締めるとその間に割って入る。


「やめてください先輩」

「レイさん? どうして……? あなたはずっと私の味方でいてくれたのに……」


 すがるような瞳。


 それは、信じられないというショックを受けた表情が浮かび上がっていた。


「マリアから聞きました。マリアはずっと辛い想いをしてきたのです。そんな風に暴力を振るうなんて、最低です」

「あ……で、でもっ!」


 サァっと顔が青ざめるレベッカ先輩。


 一方で、マリアは俺に抱きついてくる。


「ねぇ見てよ、レイ。痛いよぉ……お姉ちゃんにぶたれたよぉ……」


 うるむ瞳で、見上げてくるマリア。俺はそんな彼女の頭を撫でる。受け入れる。


 レベッカ先輩のことは責めて、マリアの言動は受け入れる。


 先輩からすれば、耐えられることではないだろう。


 俺が今まで先輩に対して誠実に接してきたことが、こんなことに役に立ってしまうなんて、耐えられるものではない。


 マリアは痛いほどに、俺の腕を掴む。


 レベッカ先輩だけではない。


 ここにいる三人ともに、胸が痛い。苦しい。


 真実を知っている俺とマリアは、ただただ辛かった。でもレベッカ先輩は、もっと苦しいだろう。俺たち二人に、裏切られたように思っているだろう。


 その苦しみは、想像などはできない。


「ねぇ、お姉ちゃん」

「な、何……?」

「お姉ちゃんが苦しいのは分かってたよ」

「え……?」

「本当はお姉ちゃんがいま怒ってるのって、多分──」


 マリアがそう言う前に、レベッカ先輩は再び手を上げた。


 先ほどと同じように、マリアの頬を叩いたのだ。


 はぁ、はぁと声を漏らし、先輩は憎悪のこもった目でマリアを睨みつける。


「……知ったような口を、聞かないでッ! なにも、なにも知らないくせにッ!!」

「分かるよ。姉妹だもん。ごめんね、お姉ちゃん」


 ニヤッと笑う。


 それは明らかに、レベッカ先輩を煽り、挑発しているものだった。



「う、うわあああああああああああああああああッ!!」



 感情を抑えきれなく無くなったのか、レベッカ先輩はついにマリアに殴りかかった。


 二人でその場に倒れ込み、頬を叩いて、馬乗りになるレベッカ先輩。


 そんな彼女ははぁ、はぁ、と呼吸を乱しながらマリアに怒声を浴びせる。




「私のことなんて、何も知らないくせにッ!!」

「お姉ちゃんはいつもそうッ! 言いたいことは言えばいいじゃん!!」

「言えるわけがない!! 私はずっと我慢するしかないのッ!」

「そうやって溜め込んでいるから、自分の本心から逃げているからッ! 後悔するのよッ!」

「うるさい、うるさい、うるさいッ!! マリアのことなんて、嫌いだった。ずっと、ずっと嫌いだったッ! 守られているばかりで、いつも可哀想で、悲劇のヒロインぶっているあなたが嫌いだったッ! 自由に振る舞えるマリアがずっと嫌いだった!!」

「私だってそうッ! 私と違ってみんなに褒められて、綺麗でお淑やかなお姉ちゃんが嫌いだったッ! 嫌い、嫌い、大嫌いッ!」




 互いにもう、心身ともにボロボロだった。そして、涙で顔は歪んでいた。


 レベッカ先輩も、マリアも、涙を流す。


 俺は止めるべきだった。しかし、止めることはない。ただ同じように、この状況をじっと見つめるだけ。



「なら、初めからそう言えばいいじゃんッ!! 私のことなんて嫌いで、いなくなればいいと思ってるってッ! お姉ちゃんもずっと思ってたんでしょッ!? 私なんて、いらないってッ! ブラッドリィ家に必要ないってッ!」



 悲痛な叫び。


 マリアは涙を流して、レベッカ先輩にその想いを告げた。



「そんな……そんなことって……」



 レベッカ先輩は勢いを失って、ただ呆然とその場に座り込む。


 制服もボロボロで、その顔からは止めどなく涙が溢れる。


「私は……私は」


 レベッカ先輩は震える声で、話を続ける。


 マリアと俺は、そんな様子をただじっと見つめる。



「マリアがいなくなって欲しいなんて……思ったことはない……大嫌い。嫌いなところもあるけどッ!! けど、マリアのことは大好きなのッ!! そんなことを、そんな悲しいことを言わないでッ!」



 悲痛な叫びを、レベッカ先輩もまたマリアに向ける。


「……お姉ちゃん」


 ほつれる髪の毛を整えることはなく、マリアは真剣な表情で先輩の様子を見守る。


 その瞬間。


 先輩の様子が、どこかおかしくなるのを俺は感じ取った。


「マリアは……マリアは大事な妹。それに、レイさんも。みんなも……あ、頭が……痛い、痛い、痛い、痛い、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」


 溢れ出る第一質料プリママテリアの奔流。

 

 やはり、彼女、、の言っていたことは本当だったのだ。


「マリアッ!! 下がるぞッ!!」

「う、うん!!」


 その小さな体を抱き抱えると、俺とマリアは後方に下げる。すでにこの領域内には、結界を張っておいた。


【冰剣の魔術師】としての力は戻してある。それに妙な感覚だ。いつも以上に、感覚が馴染んでいる気がする。


 やはりこれは……先輩との、共鳴なのだろうか。


「マリア。そこで待っていろ」

「お姉ちゃんを、よろしくね……」

「あぁ」


 歩みを進める。


 溢れ出る第一質料プリママテリアが止まることはない。


 真っ赤な第一質料プリママテリアが渦を巻くようにして、先輩の周囲に留まっている。俺はそれを減速と固定で抑え込んでいく。


 レベッカ先輩にはいま、魔術領域暴走オーバーヒートが起きている。


 それは過去に経験したからこそ、分かる。


 そして俺とマリアの目的はこれだった。


 人為的に、レベッカ先輩の魔術領域暴走オーバーヒートを引き起こす。


 それが、俺の役目。


 魔術領域暴走オーバーヒートは魔術の過度の使用もあるが、感情が昂りすぎると、生じてしまう現象でもある。


 先輩の場合は特殊だが、それを引き出し、抑え込むのが俺がここにいる理由だった。先輩の持っている力は、封印しなければならないから。


 そして、この魔術領域暴走オーバーヒートに対処できるのは俺しかいない。



「先輩」

「れ、レイさん……?」


 前もよく見えていないだろう。


 レベッカ先輩はその渦の中心で、ただうずくまっていた。


「私……私はマリアに酷いことを……あんなふうにするべきじゃないと、分かっていたのに……私は、とても醜いですね」

「……」

「はは……幻滅、しましたか?」


 先輩の第一質料プリママテリアを抑え込みながら、涙を流す彼女と向き合う。


「そんなことはありません。人間誰しも、抱えているものです。だから俺は、先輩は今でも尊敬しています」

「でも……」

「それに、先輩に辛い思いをさせてしまった……」


 悔いる。


 本当はもっと別にいい方法があったのではないか。


 だが俺は、彼女、、の提案したままに実行した。これこそが、最善だと思ったから。それに方法はこれしかなかった……。


 それでも、この心に残るのは、先輩への懺悔だ。


「それは、どう言う……?」

「これが終われば、全てを話します。だから今は、眠ってください」


 先輩の身体を優しく抱きしめる。


 全てを包み込むようにして、その身体を優しく、ゆっくりと包み込む。

 

 そして俺は、コードを走らせる。



第一質料プリママテリア=エンコーディング=物資マテリアルコード》


物資マテリアルコード=ディコーディング》


物質マテリアルコード=プロセシング=減速ディセラレーション固定ロック


《エンボディメント=現象フェノメノン



「──体内時間固定クロノスノック


 発動した魔術は、体内時間固定クロノスノック


 先輩の特定の魔術領域を固定した。


 すると、周囲の第一質料プリママテリアが収束していき……レベッカ先輩は意識を失った。



「……お姉ちゃん。大丈夫なの?」

「あぁ。成功だ」

「良かったぁ……」


 マリアはその場に座り込む。


 安心したのか、完全に気が抜けているようだった。


「マリア。その……」

「いいのよ。思っていたのは本当だったし、いつかお姉ちゃんとは向き合う必要があると思ってたから。でも、あはは……お姉ちゃんがこんなに殴ってくるとは考えてもみなかったけど。私も本気で殴っちゃった」

「……すまない。俺は、見ることしかできなかった」

「だーかーらー! いいってば! もう、シャキッとしてよね」

「あぁ。そうだな」


 レベッカ先輩の身体を抱きかかえて、師匠たちと合流しようかと思っていると……後ろから声が聞こえた。



「おっと。そいつは置いていってもらうぜ?」



 振り向く。


 そこにいたのは、あの日に出会った人。


 だが、これは予想どおり。


 きっとこのタイミングで来るだろうと思っていた。


「マリア。レベッカ先輩を見ていて欲しい」

「……分かったわ」


 すでにここで戦いになるかもしれないと、マリアには説明してあった。


 そうして、俺は向かい合う。


 自分の能力を完全に解放して。


 溢れ出る青白い第一質料プリママテリア。それを見て、相手はニヤリと不適にわらう。


「やっぱり、お前が冰剣だったか」

「はい。あなたは、暴食パラトロゴでしょう? 裏では有名とか」

「ほぅ……パラまでは知っている奴は多いが、そこまで知っているのか。なるほど。どうやら、裏にいるのはあいつみたいだな」

「えぇ。そして俺とあなたがここで戦うのは、用意されたシナリオだ」

「ははは! あぁ。分かっているさ! でもな、当代の冰剣と戦えるとはなぁ……ははは! 高ぶってきたぜ!!」



 巨躯。


 あまりにも大きなその体は、エヴィや部長の比ではない。それに、纏っている第一質料プリママテリアの質も違う。


 その雰囲気を見れば分かる。こいつは、血で塗れ、殺戮を重ね続けている魔術師。


 俺と同じだからこそ、分かる。


 そして、コードを走らせると魔術を発動。


 顕現した冰剣を、両手で握り締める。



「──いくぞ」

「あぁ! 望むところだぜええええええええええええッ!!」



 微かな月明かりに照らされ、俺たちは戦いを始めた。


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