第87話 アビーの日常


「ふぅ……」


 目を覚ます。


 アビーは朝型であり、寝坊は人生の中で一度もしたことはない。


 彼女はスッとベッドから起きると、そのまますぐに脱衣所へと向かう。手早く下着を脱ぎさると、シャワーを浴びてからさらに意識を覚醒させる。


 その後、自分でコーヒーを淹れる。


 ここまでが彼女のルーティーンである。


 今日は久しぶりの休みということでアビーはどうしようかと考えていた。


 魔術剣士競技大会マギクス・シュバリエも無事に終了し、と言っても裏で死神グリムリーパーの処理などはあったが、久方ぶりの休暇を満喫しようと思っていた。


 だがやはり習慣とは恐ろしいもので、いつものように仕事に向かう時間に目が覚めてしまった。


 現在の時刻は、午前七時。


「さて、どうしたものか」


 朝食を取り、淹れたコーヒーも全て飲み干したアビーは思索しさくふける。


 ──午前中は積んでいた本を読み、午後からは街に出るか。


 特に買うものはないが、それでも一日中家にいるというのは流石に暇なので街をブラブラしようかとアビーは思った。


「よし……」


 机の上に置く三冊の本。


 それは全て恋愛小説だ。この歳にもなって……と自分では思ってしまうのだが、好きなものはどうしようもない。


 いつか自分も身を焦がすような素敵な恋をしたいと思い描きながら、アビーは物語の世界へと没入していく。




「おっと。もうこんな時間か」


 顔を上げると、すでに時刻は正午に近くになっていた。


 壁にある時計の針を刻んでいる音が、やっと彼女の耳に入ってくる。


 あれからアビーは完全に没頭し、すでに三冊ともに一気に読破してしまった。


「さて、そろそろいくか」


 アビーは立ち上がると、クローゼットを開ける。


 今日は特に誰かと会う予定もないので、シンプルに白のシャツに、パンツスタイルの服装で出かけることにする。


 スカートは持ってはいるが、それでもアビーの性格上あまりスカートは好まない。こうして自由に選択していいのなら、彼女は迷わずにパンツスタイルを選択する。


 そしてアビーはバッグも持たずに、ポケットに財布を入れるとそのまま扉を開けて外に向かうのだった。



 ◇



 中央区。


 今日は休日ということで、人がかなり多い。アビーは人混みには慣れているので、今日のような日でも街を歩くことが億劫になることはない。


 そして本屋に行って、新しい本でも調達しようかと思っていると彼女は見つけてしまった。


 それはリディアとカーラだった。


 しかしその様子からして、レイをストーキングしているのは間違いなかった。


 ──はぁ、またやっているのか。


 そう辟易しながら、アビーは二人の元へと向かう。


「おい、リディア。またか」

「アビーか。今は忙しい。後にしてくれ」


 いつになく真剣な様子。


 リディアはじっとその双眸を開いて、ある一点を注視していた。アビーもまた、その視線を追うと……あぁ、と得心する。


「レイがいるのは分かっていたが、まさかデートか」


 そうアビーが口にすると、リディアは視線を全く逸らすことなく一気に捲し立てるようにして話し始める。


「エリサ=グリフィス。頭はかなり良いな。あの年齢で二重コード理論を理解している頭脳は感嘆すべきものだ。将来はおそらく、良い研究者になるだろう。だが、問題は……アレだ。あの儚さなのだっ!!」


 物陰から買い物をする二人を忌々しそうに見つめながら、拳をギュッと握るリディア。


 アビーは全く何のことかわからないので、素直に尋ねてみることにした。


「儚さって、どういう意味だ?」

「あの守ってやりたくなる、あどけない表情。時折見せる綺麗な笑顔。それにレイを見つめる視線も、まだ色はない。純粋なまでに友人に徹しているエリサは私からすれば満点に近い」

「良いじゃないか。レイも楽しそうにしているし」



 ちらりとレイとエリサの方を見ると、二人は笑い合いながら本屋で談笑をしていた。側から見れば、カップルにしか見えないだろう。


 ──完全に釣り合っているし、よくお似合いだ。


 だがどうやら、リディアにとってはそれが問題らしい。


「ぐぬぬ……どうすれば、私はどうすれば……」

「ま、早く子離れすることだな」



 そう言って去ろうとするが、アビーはその後もリディアの愚痴に付き合わされ、挙句には生贄いけにえにされてしまった。それは、レイがリディアのことを『ゴリラ』などと形容した瞬間に起こったものだった。


「ちょ、殺気! リディア! レイが気がついたぞっ!」

「はっ!? ついやってしまった! アビー頼むッ!」

「はぁっ!?」


 そんなやりとりをして、アビーは路地裏から無理やり叩き出されてしまう。そしてちょうどばったりとレイと遭遇する形になる。



「アビーさん? どうしてこんなところに?」

「レイとエリサ=グリフィスか。いや、先ほどナンパにあってな。そこの路地裏でシメていたところだ。少し殺気が漏れてしまったがな」

「なるほど。アビーさんのものでしたか。驚きましたよ。この白昼堂々、あのような殺気が漏れるのですから」


 怪訝そうな表情をして、そう尋ねてくるレイ。アビーは咄嗟に適当なことを言って何とか辻褄を合わせようとするが、レイが追求してくることはなく内心ホッとする。


「くそ……リディアのやつ……これは貸しだぞ……」


 思わず漏れる愚痴。


 ──どうして何もしていない自分が、あの親バカのフォローをしなければならないのか。まぁ仕方ないか。いつものことだしな。


 いつものことなので慣れてしまっているアビーもまた、相当毒されているのにまだ気がついていない。



「アビーさん? どうかしましたか?」

「いや。なんでもない。レイはデートを楽しんでくれ! ではな!」



 高らかにそう声をあげると、アビーはそのまま戦線を離脱。


 もうリディアに関わりたくない彼女は、そのまま喧騒の中に消えていった。




 その後、自分の買い物を済ませたアビーは一人で黄昏の光に包まれながらボーッとその夕焼けを見つめていた。


 公園のベンチに座り、今日一日を振り返る。


「はぁ……あいつらはどうなったのか」


 あれからきっとレイはデートを継続しただろう。しかし、リディアの方は大丈夫だったのだろうか。やはり世話焼きということが起因して、アビーは心配していた。


 ──もちろんレイのこともそうだが、リディアはショックを受けるとすぐに不貞腐れる。落ち込んでいないと良いのだが……。


 なんだかんだ言って、リディアのことが心配なアビーはそう考えていた。


「はぁ……今日はあっという間だったな」


 すでに夕日は完全に沈もうとしていた。


 彼女の隣には、本屋で手に入れた新しい小説がある。


 それをそっと撫でながら、少しだけ過去を想起する。


「もう、三年も経ったのか」


 何でもない日常。


 それを当たり前のように享受できる今。


 過去のあの時……極東戦役に参加していたときには考える余地もない未来。


 アビーはずっと自分は軍人でいるのだと、そう思っていた。いや、彼女だけではない。


 リディアも、キャロルも、ずっと同じ軍人として進んでいくのだと……そう思っていた。


 でもそれぞれが違う道を進み始めた。


 確かに以前と距離感は変わらない。それでも、進んでいる道は変わってしまった。


 あの戦いを経て、アビーもまた多くのものを失い……そして、自分の人生を改めて考えることでアビーは今の地位にたどり着いた。


「さて、と」


 パンパンと臀部の埃を落とすと、彼女は本の入っている紙袋を腕に抱えて帰路へと着く。


 その際に、仲睦まじく歩いていくレイ、リディア、カーラの姿が見えた。


 その姿はいつかあの時の過去を想起させるが、今はあの時のように悲壮感などない。


 ただ笑い合いながら進んでいく姿を見て、アビーも微かに笑みを浮かべると悠然と黄昏の光に包まれながらまっすぐ歩みを進めていくのだった。



 後日。



「う、うわあああああああっ! アビーっ! どうしよう! レイが、レイがああああああああああっ!」


 早朝から自宅に押しかけてきたリディアを見て、アビーは「はぁ……」とため息を付いた。


 ──でも、こんな日常も悪くはないか。


 そんなことを思って、彼女はリディアを部屋の中に招き入れる。


 アビーもまた、今のささやかな日常を楽しんでいるのだった。

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