第86話 リディアの日常


「うう……ううぅん……」


 リディア=エインズワースの朝は早い。

 

 彼女の元々完全な夜型である。研究の作業をするにも、夜の方が捗るのは自他共に認めるところだ。


 本来ならば惰眠を貪り、そのまま昼まで寝ることを彼女は厭わない。だが、今年の四月からリディアは朝八時には目を覚ますようにしている。


 それはとある理由からなのだが……。


「リディア様。起床する時間でございます」

「あと十分……」

「いつもそう言って、引き伸ばそうとしますがダメですよ」


 カーラ=ヘイル。


 リディアの元に住み込みで働いているメイドだ。カーラがこうしてリディアの元で働くようになったのは、ちょうど二年ほど前からだ。その際には色々とあったのだが、カーラは現状に非常に満足して生活を送っている。


「うう……ん……ねむ、眠い……」

「レイ様のところに行くのが遅れてしまいますよ」

「!」


 魔法の言葉。


 それをカーラは持ち合わせていた。


 そう。それは、レイのことを口にすればいいだけだ。リディアは頑なに否定するが、実際のところレイのことが愛おしくて仕方がないのである。


 今まではずっと一緒にいたので、割とレイにたかったり、テキトーなこと言ったりなど、粗雑に扱ってきたのだが、こうしていざ離れてみると寂しさと言うか……愛おしさが募るのだ。


 愛とは障害がある方が盛り上がるというが、リディアの愛はまさにそれだった。

 

 いつも会えていたレイと離れ離れになったことで、彼女はレイに会えない日はそれはもう寂しそうに一人で書斎で研究に励んでいる。


 だがリディアは思ったのだ。そうだ。会えないのなら、会えばいいではないかと。


 ということで、彼女は四月から実は学院に度々顔を出してレイのことをじっと見つめていたのである。


 レイほどの魔術師ならば、その視線に絶対に気がつくはずだ。


 しかし諜報に長けているカーラとリディアの技量はレイのそれをかろうじて上回る。時折、バレそうになることもあったが今の所まだレイは気がついていない。


 そしてその際には、よくアビーの元で世話になっている。


「なぁリディア」

「なんだ?」

「いい加減、子離れしろ」

「はぁ!? べ、別にそういうわけじゃ……! ただレイが心配というか、なんというか……!」

「はぁ……お前のために色々と便宜を図る私の身にもなってくれ」

「う……それはすまないと、思っているが……」


 あれからすぐに支度を整えたリディアは、カーラに車椅子を押してもらいこの学院まで来ていた。もちろん、リディアの家からはそれなりの距離はある。しかし魔術を使うことで、カーラとリディアはその移動速度を上げているのだが……それは色々と公には公開できない魔術を使ったりもしている。


 そして学院にやって来たリディアはレイが普段通り過ごしているのを確認すると、アビーのいる学院長室へと移動していた。

 

 いつものルーティーンでは、ここでお茶でも飲んで帰るところなのだが最近はアビーが妙に小言を言うようになったので、リディアとしては居心地が悪い。


 と言っても、ここに居座っているリディアが悪いのだが。


「レイなら大丈夫と言っているだろうに」

「だが貴族によるイジメが……!」

「それはとうの昔にどうにかなった。今はかなり緩和されている」

「うう……それは、そうだが」


 実際の所、入学した当初にレイに対して行われた差別はリディアの耳にも入っていた。


 その時は、レイを馬鹿した生徒を全員氷漬けにしてやると豪語していた彼女だが、アビーの説得によりなんとかそれが行使されることはなかった。


 アルバートたちは奇しくも、リディアに氷漬けにされるのを回避していたのである。


「来るなとは言わないが、そろそろ自覚しろ。レイはもうお前の元を巣立ったんだ」

「……」

「どうした?」


 急に黙るリディア。


 そして、拗ねたようにプイっとアビーから視線を逸らすと彼女はこう口にした。


「だ、だって! レイのことが心配なんだもん!」

「はぁ……」


 額に手を当てて、やれやれと言わんばかりに首を左右に振るアビー。


 アビーは学生の時から知っているが、リディアは時折こうした幼い一面が出ることがある。リディアがアビーに頭が上がらないのはそのためだ。同じ年齢ではあるが、実際はアビーが姉でリディアが妹と言う立場だ。


 そしてアビーの方も、そんなリディアを見捨てることができない……というのが二人の関係性とでもいうべか。


 リディアはわなわなと震えながら、さらに言葉を続ける。


「も、もしかしてレイに彼女でもできたらと思うと……」

「思うと?」

「そいつを氷漬けにしたくなるんだ……っ! これが親心なのかっ!」

「はぁ……なんだ。それならレイは誰とも結婚できないじゃないか。というよりも、レイほどの魔術師が結婚しないわけがないだろう」

「う……! でもそういうことなら、アビーもそうだろうが!」

「う……! でも、お前もそうだろうが!」

「う……!」

「「……」」


 二人で傷口を抉り会うのはやめよう。会話をすることもなく、その内容を打ち切ることにした。


 リディアが結婚できないのは、完全に性格に難ありとレイに対する過剰な愛情のためだが、アビーはそうではない。


 彼女は立派な大人であり、常識を兼ね備えている上位魔術師の中では稀有な存在だ。そして何よりも優秀。加えて、容姿端麗、頭脳明晰。


 男が放っておくわけがないと思うが、そうではない。


 問題は優秀すぎることにあるのだ。


 男性たちは、アビーのその圧倒的な優秀さに怖気付く。そのような背景があり、二人とも三十歳を目前にして未婚。完全に行き遅れてしまったのが悲しい現状である。


「アビーちゃん! お昼ご飯いこ〜☆ ってあれ〜? またリディアちゃんもいるの〜☆」


 ノックをすることもなく、無遠慮に扉を開けるのはキャロルだった。


 いつものように胸が大胆に開いた派手な服装に、桃色の艶やかな髪は緩やかに巻かれている。実際の所、性格に一番問題があるのはキャロルだが、学生には人気がある。主にその、妖艶な容姿的な意味で。


「キャロルか。私がいたら問題なのか? あぁ?」


 すぐに喧嘩腰になるリディア。


 リディアとキャロルは犬猿の仲、とまでは言わないが仲は良くない。いや実際には十年以上の付き合いなので仲は良いのだろうが、本人たち、特にリディアはそれを認めない。


 アビーからすれば、二人ともいつも喧嘩してばかりで本当に飽きないな……と辟易している。


「いや〜? 問題ないけど〜☆ でもいい加減、子離れしたら〜? キャロキャロもレイちゃんはもう一人の立派な大人だと思うよぉ☆」

「おい。アホピンク。私は知っているんだぞ。お前がまだ、レイの童貞はじめてを狙っていることをな……」

「えぇ!? そんなことないよー☆ 心外だなぁ……今のキャロキャロとレイちゃんは教師と生徒。そんなイケない関係だなんて、ぽ……」


 その雪のような真っ白な頰が桜色に染まり、キャロルはわざとらしくその頰に手を当てる。


 始めのうちは否定しようと思ったのだが、教師と生徒の禁断の関係というものを想像して最後には自分で頰を赤らめる始末。


 流石のその態度には、リディアもマジギレしてしまう。


 本当に堪え性の無い彼女である。


「貴様ぁ……レイに手を出したら、ただじゃ済まさんぞ……!!」

「えー!? でもいつか誰かがもらうものじゃーん! なら、大人が正しく導いてあげるものじゃないかな〜☆」

「黙れっ! それは私が見極めるっ!」

「ならリディアちゃんがしちゃいなよ」


 急にスッと一歩引くようにして、キャロルは冷然とそう告げた。


「は?」

「リディアちゃんがレイちゃんの童貞はじめて、貰えばいいじゃ〜ん☆ それなら文句ないんでしょ〜?」

「はあああああああああああああああ!!?」


 響き渡るリディアの声。

 

 それは昼休みである今でなければ、間違いなく騒ぎになっていただろう声量。


 そしてそんな当人は、顔を真っ赤にして慌てふためいている。


「わ、私はその……っ! そんなつもりじゃっ! れ、レイはその……かっ、カッコいいけど、ち……違うって言うか、そのっ! うぅ……うううっ……は、恥ずかしい……」


 顔だけでなく、身体中を真っ赤にして否定するリディア。それはまるで、何の汚れも知らない乙女そのもの。うぶすぎるというか、生娘でももう少し冷静に対応すると思うのだがリディアはそうではなかった。


 そんな様子を見たアビーとキャロルは同じことを思う。


 ──可愛いっ!


 二人は昔からリディアの恥ずかしがる姿を目撃しているが、そのたびに思うのだ。


 ただただ、可愛らしいと。


 こんな姿を知っているからこそ、アビーとキャロルはリディアに対してどこか優しいというか、寛大な心で接するところがある。


 この姿をレイも見れば、師匠にも可愛いところがあるのか、と思うだろうが当人の前では絶対にそんな姿は見せない。


 純粋な乙女のような女性らしさをレイに見せるのは、リディアにとってかなり恥ずかしいのだ。それは今まで勇ましい態度を例に見せているからこそである。



「ま、リディア。お前も頑張れよ」

「うんうん。そうだね〜☆ 頑張ってねっ! リディアちゃんっ!」

「時々、優しそうに見るお前らのその目は嫌いだああああああああああああっ!!」


 そして一人で車椅子を爆速で押していくと、そのままリディアは室内から消え去ってしまう。


「それでは、私も失礼します」


 今までずっと沈黙を貫いていたカーラはそう告げると、ロングスカートを翻して颯爽と主人であるリディアを追いかけるのであった。


「可愛いねぇ……リディアちゃん☆」

「からかうのも大概にしておけよ。あいつがマジでキレると、抑えるのが大変なんだからな」

「はいは〜い!」

「じゃ、昼飯でもいくかキャロル」

「は〜い☆」


 そうしてアビーとキャロルは二人で昼食をとるため、この部屋を後にするのだった。


 リディアが自分の気持ちと向き合うのは、果たしていつになるのか──。

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