第49話 きっと私は、ここにいる


 時が止まったかのような感覚。


 いや、それは比喩表現に過ぎない。だって、その蝶は私たちの間を悠然とひらひらと飛んでいたのだから。黄昏時の光に照らされて、真っ赤な蝶はその色をさらに濃くしていく。


 これは一体なんだ? 何が、何が起こっている?


 これがこの森に生息している蝶だとは思えなかった。それはレイが静止していることからも明らかだろう。それに彼は私の動きをじっと見極めている……そんな感じがした。


 ならばこれは、好機チャンスだッ!!


 だがそう思ったのは、私だけではない。レイの右手は再び私の胸に迫る。この距離感で、このスピード。あの蝶のことは分からないが、レイの取る行動は迷いがなかった。このままでは……捥ぎ取られてしまう。残っている二つの薔薇が彼の手に渡ってしまう。


 今のままでは……間に合わない。


 レイに教えてもらった体術も、魔術も、どちらも間に合うことはない。



「……うわああああああああああッ!!」



 その時取った私の行動は自分でも意識してのことではなかった。


 ただ負けたくないという想いから私は……レイの右手に噛り付いていたのだ。私が取るべき行動は、なんとか時間を……時間を引き延ばすことだけだった。だから今はこうするしかないと、私の無意識が判断を下したのだ。


「ぐッ……!!」


 そう声を漏らすレイ。流石にこれは予想していなかったのか、レイの反応は遅れてしまう。もちろん私も噛み付いたこの右手を離すわけにはいかない。それに次にやってくる左手のカバーもしなくてはならない。


「んんんんんんんんんッ!!!」


 無我夢中だった。


 そしてその蝶がひらひらと私とレイの間に再び飛んでくる。


 ──これはきっと……。


 そして次の瞬間、その蝶が爆ぜた。


 私はなぜかそのことを理解していたので、とっさに体を庇うようにして後方に吹っ飛んでいく。受け身を何とか取りながら、そのままゴロゴロと転がって行く。


 一方の流石のレイも防御は間に合わなかったのか、後方へと吹き飛ばされていく。しかし流石に受け身を取るのは早い。焦げ付いている体など気にせずに、互いにその双眸を見つめ合う。


 もうあの蝶はいなかった。あれは一体なんだったのか。


 でも、そんなことはどうでもいい。時間よ、早く、早く過ぎて──ッ!!


 タンパク質が焼けた特有の匂いが鼻腔をつく。おそらく私の髪の一部が焼けたのだろう。でもそんなことはどうでもいい。今はただ、レイの姿を見失うわけにはいかなかった。


 そう集中していると……。


 ドクン、と心臓が跳ねる。


 それは何なのか。徐々に私の身体は熱に支配されていく。


 熱い。ただ、ただ、熱い。


 身体を内側から灼かれていくような感覚。


 でもどうしただろう。痛覚はなかった。


 そして次の瞬間、大量の真っ赤な蝶たちが顕現する。それは、私の周りを飛んでいる。ふわふわ、ヒラヒラと飛んでいる。


 これは、私が生み出したのか?


 でもこれは一体……何なのだろう。


 その時の私は完全に惚けていた。もちろんそれを見逃すレイではない。彼はそのまま大地を駆けてくると、一閃。


 あぁ。そうか。


 結局、負けちゃったか。


 でも不思議と後悔はなかった。私は全力でやり遂げた。今持てる自分の全てを持って挑んだ。諦めたくはない。絶対に負けたくはない。そう思ってはいても、現実は非情だ。どれだけ想いが強くても、届かないことは、叶わないことはあるのだ。


 そして彼の振るうその剣が、私の薔薇に達しようとした刹那……それは起きた。


「え……」


 そう。それは、ありえない現象。理解できない現象。でもそれは目の前で起こっている。


 私の胸の薔薇はまだ散ってはいなかった。ただ身体から溢れ続ける真っ赤な蝶がそれを防いだのだ。何百匹という蝶がまとまり、その剣戟を受け止める。


 ツーっと、鼻血が垂れる。でもそれを拭うことなく、ただ意識を落としていく。深海の底に沈むような感覚。深く、深く、この意識が沈んでいく。


 私の世界は暗闇に支配されていく。でもそれは、悪いものではないと直感的に理解していた。これに身を任せればいいと、分かっていたから。


「あ……」


 そして、私は自分の能力の片鱗を唐突に理解した。そこから先は彼と互角、いや私が圧倒する時間がやってきた。


 ただただ、二人で舞う。


 この森で、この黄昏の光に身を包みながら、私たちは戦い続けた。先程までは早く、早く終わって欲しいと願っていた。でも今は終わらないで欲しかった。


 今、この世界にいるのは彼と私。たった二人で、世界の中で舞っていた。舞い続けていた。まるでこの世界にいるのは、私とレイだけのように、二人で戦い続ける。


 あぁ。そうか、そういう事だったのか。


 悟る。そして、私は自分が至るべき場所を理解した。そうか。レイが示していた場所はすぐそこにあったのだ。


 そして、永遠に続くとも思われた時間は、終わりを迎える。


 

「……アメリア。おめでとう、時間だ」

「え……?」



 そう言われて、私はピピピピという機械的な音がなっているのに気がついた。


 いつの間に……? レイが言わないと気が付かなかった。それほどまでに、私は最後の攻防に没頭していたのだ。


「お……終わったの?」

「……あぁ。終了だ。そして君の胸に残った二つの薔薇。それが成果だ」


 よく見ると、レイの手には私の歯型がくっきりと残っていて、そこからはポタ、ポタポタポタと血が滴ってくる。地面に滴るそれを見て、私は自分が何をしていたのか、改めて理解した。


 そうか。私は最後にレイに噛み付いていたのか。そして互いに焼け焦げた服に、髪も少し焼けている。おそらく、この顔も酷いものになっているだろう。それはレイを見ればわかった。とっさに防御することもなく、あの爆発をまともに受けたのだ。


 我ながら、ものすごいことをしたものだ……。


「あ……その……む、夢中で……ご、ごめんなさい……」

「いや構わない。お互い様だ。それにあの蝶もな……」

「あ……う……うん……でも、ちょっと……その無意識の行動で……」


 あの蝶……という彼の声はかろうじて聞こえる程度だった。今の私はそれはどうでもいいと思って、さらに会話を続ける。


「……俺はアメリアの心を折るつもりで行動していた。初めから薔薇を大量に奪うのではなく、じわじわと追い詰めるようにして最後の戦いまで持って来た。アメリアを今まで見てきた俺は、確実に勝てる戦いを仕掛けていた。俺としては十七時あたりには決着をつけることができると思っていたが……完敗だ。俺は今出せる全力で挑んだ。でも、勝ったのはアメリア。君だ」

「あ……え……う……そ、その……」


 うまく声が出ない。

 

 そしてホッとしたのか、腰が抜けてしまう。


 思えばどうしてここまで頑張ることができたのだろう。


 心が折れそうな時も幾度となくあった。何度も何度も、折れそうになった。でもその度に自分を振るい立たせていたのは、自分でもよく分からない。


 だがそれは、レイに見捨てられたくない。失望されたくないという後ろ向きな気持ちではなかった。


 ただ全力でこの戦いに向き合っていただけだった。


 自分に負けそうになりながらも、挫けそうになりながらも、私は……ここまで来たのだ。もう嫌だった。自分に失望し続けるのは。


 ここまで色々な葛藤を抱えてきたのだから、最後までやりきってみたい。そう思い始めて、最後はもう……意地だった。


 ここまできたのだから、何が何でもクリアしてやると。レイと過ごした時間は決して無駄ではなかったのだと。脱走する時も、嫌がりながらやる時も、叫び声を情けなくあげることもあった。


 でもその日々は、私と彼の本物の日々であったと──。


 私は証明したかった。


 自分のためだけではない。私のためにも尽くしてくれたレイのためにも、私は……この修了試験をクリアしたかった。


 決してそれは後ろ向きな気持ちではない。レイに見捨てられたくないのではない。


 レイの努力に報いたいと、そして自分もまた変わりたいと……ずっとそう願い続けてきたのだから。きっと私は、レイがいなければここまでたどり着くことはできなかった。


 表面上では、自分に辟易していた。でもレイと出会って、自分も彼のように……レイそのものになるのではなく、彼みたいに強くなれるのだと。


 アメリアとして、その場所にたどり着くのだと。


 そう願った果てが、今だった。

 

 ふと振り返って考えてみると、私はここまで来ていた。こんなところまで来ていた。短い期間だった。


 でも私にとっては、今までの空虚な時間に比べれば、人生の中でも最も濃密な日々だった。彼と過ごした日々は……私にとっての、本物だったのだ。


 そんな私は……やり遂げることができたのだろうか。



「さてアメリア訓練兵。最期の時だ」

「……れ、レンジャー!」



 私はそう言われて、もう何度目か分からないその言葉を言いながら、なんとか立ち上がる。その際には、レイが手を貸してくれた。彼のその分厚い手を握って、私は知った。


 本当に……本当に私は、やり遂げたのだと。今まで色々とあった。本当に色々な気持ちが混ざり合って、葛藤して、ぐちゃぐちゃになりそうになりながらも、ただ光を求めて走り続けて来た。


 別に偉大な何かを成し遂げたわけでも無い。ただ一人の愚かな少女が、何かを手に入れただけ。別に、この広大な世界にとっては特別なものではありはしない。


 でも今の私の中には、確かな充実感があった。


 私にとってのこの戦いは、今までの努力は、今。たった今。特別なものになったのだ。


 過程が結果を決めたのではない。結果が、私の過程を色鮮やかなものに変えたのだ。


 二人で過ごした日々が、色鮮やかに変化していく。


 そんな不思議な感覚に、私は浸る。


 あぁ……私は、私は、たどり着けたのだろうか。



「アメリア訓練兵ッ! エインズワース式ブートキャンプ修了であるッ!」

「レンジャーッ!」

「そしてこれがレンジャー記章だ。もちろん正規なものではないので、俺の手作りだが」

「ありがたく頂戴いたしますッ!!」


 そして私はそのレンジャー記章を受け取る。


 薔薇をモチーフにした、真っ赤なバッジだ。ちょっといびつなところもあって、レイが色々と考えて作ってくれたのだと分かった。本当にどこまでも優しい人だと、私はそう思った。


 それを受け取ると、私はそれを胸につける。


 レイはそんな私の姿をじっと見つめると、フッと笑う。その顔は先ほどまでの、戦っていた時の冷たい表情ではなかった。いつものように、暖かさのあるレイの顔だった。


 そして彼は、優しい声音でこう告げる。


「おめでとう。アメリア」

「うん……うん……」

「よく頑張ったな」

「うん……」


 ポロ、ポロポロと涙が溢れてくる。


「辛いこともたくさんあっただろう」

「うん……大変だったよぉ……辛かったよぉ……」


 そして決壊する。


 私は完全に涙を流していた。それに、鼻水も大量に出て来ている。ぐちゃぐちゃだった。もう私の顔は完全に涙と鼻水でまみれている。焼け焦げた服に、髪。泥だらけの顔に、涙と鼻水でそれが混ざる。


 みっともない。あぁ……本当に情けないとも。


 でもそんなことを気にするほど、今の私は冷静ではなかった。


 ただただ、嬉しかった。そこには確かな達成感があった。


 この心が満たされる感覚はなんだろう。私は自分の求める私にたどり着くことができたのだろうか。



「改めて言おう。おめでとう、アメリア。万全を期して、魔術剣技競技大会マギクス・シュバリエに臨んでほしい。大丈夫だ。これほどの過酷な訓練をこなしてくる生徒などいやしない。自信を持っていい」

「うん……うん……」


 涙でもう前はよく見えない。でもレイは今まで見てきた中で、一番優しそうな表情をしてこう告げる。


「……アメリア。君は自分が思っているよりも強い。俺はずっと信じていた。期待していた。そして、アメリアはこの訓練を乗り越えた。だからもっと、自分を誇っていい。肯定していいと……俺は思う。君が過ごしてきた日々は、本物だったんだ」


 そう言うと、レイは私の両手を包み込むようにしてギュッと握ってくれる。その確かな暖かさを感じて、もう我慢など……出来なかった。


「うん……うん……! うわあああああああ! 私、私やったよおおおおおおおおおおお!! 頑張ったよおおおおおおおお!」

「あぁ……よくやったとも。アメリアはすごい……素直に脱帽だ。だから、今日は泣いてもいい。俺が全てを受け止めよう」

「うわあああああああああああああああん!!」


 私はレイに抱きついて、そのまま外聞など気にせずにただただ泣いた。

 

 涙を流し、鼻水を垂らし、情けなく声を上げる。でもそんな私を、レイは優しく包み込んでくれる。


 人生で初めてのことだった。今まで涙すら出ることはなかった。ただ無感情に、どうしようもない自分に辟易していただけだ。


 でも私も、ほんの少しかもしれないけど……前に進み始めたのかもしれない。


 この短かったようで長かった訓練を私は乗り越えた。


 諦めたい日も、全てを投げ出したい日もあった。後ろ向きな気持ちで続けていたけれど……でも今は、人生で初めて自分で何かを成し遂げたという嬉しさで胸がいっぱいだった。


 まだ私は、籠の中の鳥だ。


 でも、それでも、少しだけ立ち上がることはできたのかもしれない。今まではただその籠の中でうずくまるだけだった。でも今は……今の私はやっと、立ち上がることができていた。


 そして前を向いて、この広大な世界に向き合って行くのだろう。


 ──きっと何者にもなれない私へ。私はそこにいますか。


 うん。私はここにいる。彼の暖かさを知りながら、自分の涙の暖かさを、私はもう……知っているのだから。


 きっと私は、ここにいる。


 確かに、ここに、この場所に、存在している。


 友人たちと、そしてレイが生み出してくれたアメリア=ローズという存在を、この心に刻みつける。


 私は進み始めた。


 今日この瞬間に、たった一歩だけ、進んだのだ。他の人にして見れば、些細な、どうでもいいような、ごく当たり前の一歩かもしれない。


 でもそんな些細な一歩が、私にとっては本当に大きな一歩になった。


 こんな私でもちゃんと前に進めるのだと。今日、たった今、知ることができた。


 だから、自信を持って挑もう。


 多くのライバル達が待っている、魔術剣技競技大会マギクス・シュバリエに。


 その先にある、本物の自分を求めて私は進み続ける。


 彼が与えてくれたものを、この心に刻みながら──。

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