18 凛と鳴る

 夏が来た。


 毎年この季節になると、凛の家の近所の神社では夏祭りがある。

 取り立てて都会でもなければ、大きな商業施設も多くないこの街では、夏祭りは一番の賑わいを見せる大イベントだ。

 街の子どもたちはみな祭りを楽しみにしていたし、こぞって祭りへと出かけた。凛も例外なくそんな子どものうちのひとりだった。


「ほら、行くよ、凛。ちゃんとお母さんと手を繋いで」


 その日。夏祭りの夕方、凛は母に手を引かれて家を出た。

 外は昼ひなかよりは良いものの、重く湿気った空気に満ちている。時折風が吹くと、やっとひと心地つけるような暑さである。


「手を繋がなくても迷子になんかならないよ。もう小学三年生だよ、私」

「小学三年生は十分子どもです。あの人出だもの、迷子間違いなしだよ。離したらダメだからね。あとあんまりよそ見ばっかりして転ばないように」


 母の注意に口を尖らせながら、それでも祭りに行けると思えば気がはやる。

 また吹き抜けた風が、凛の水玉模様のワンピースを翻す。

 風に乗って、祭囃子が聞こえてきた。



 参道には色とりどりの提灯で飾られた屋台がひしめいていた。

 賑やかな出店には、誘蛾灯に惹かれる虫のように集まる人々の姿がある。

 お面に綿あめ、金魚すくい、焼きそばたこ焼き、射的に型抜き。

 これだけの店があれば、欲しいものが何でも手に入るような気さえしてくる。


 目を輝かせながら屋台を見つめていた凛だが、もっとも興味を抱いたのは、なんと言ってもりんご飴だった。

 真っ赤なりんごに飴をかけ、持ち手になる棒が刺されたそれ。凛の目には、美しい宝石みたいに素晴らしいものに映った。

 すかさず母の袖を引いてねだる。


「お母さん、りんご飴!」

「はいはい。じゃあひとつ下さいな」


 母が買い求めてくれたりんご飴を大事に受け取る。

 ご機嫌になった凛は、そのまま左手にりんご飴を持ってお祭りを歩き回っていた。

 この宝物をすぐに食べてしまうのは、あまりにも惜しかったのだ。



 時間が経つにつれて、祭りの人混みは捌けるどころか増してくるようだ。

 ひと際混雑の酷い細い道をやっとの思いで抜けた時、凛ははっとした。

 いつの間にかしっかり繋いでいたはずの母の手を見失っていたのだ。


 慌てて辺りを見渡そうとしても、自分よりずっと背の高い人波の中で母を探すのは容易なことではない。

 そして人の流れに飲み込まれてしまい、立ち止まることもできない。

 凛は、気がつけばひとり、見覚えのない通りに佇んでいた。



(どこだろう、ここ……)


 見回してみれば、石の柵で隔てられた道の脇に、真っ赤な風車がいくつも並んでカラカラと回っている。

 不思議なほど人の気配はなく、黄昏時の妙に薄ぼんやりとした明るさが辺りに立ち込めている。

 あんまり静かで、こんな場所があの神社のどこに存在していたのかと首を傾げる思いになる。

 なんだか段々と怖くなってくる。


 りん、と鈴の音がした。

 その音は妙に澄んでいた。突き抜けるように耳に響いて、凛は思わず音の方を振り返っていた。


 狐面をかぶった子どもが立っていた。

 自分と同じくらいの背丈で、何ら変哲のない半そでシャツに半ズボン。右手に鈴のついた紐を結んでいる。男の子のようだ。

 表情や顔かたちは分からないけれど、どうやら凛を見つめているらしいことがわかる。

 そんな気配を感じた瞬間に、堪えていた心細さがぶわりと膨らみ溢れてしまう。


「……誰? ねえ、私のお母さん知らない? 屋台の方にはどう帰るの?」


 矢継ぎ早に問いかける凛への返事はない。

 代わりに少年はゆっくりと手を持ち上げ、何かを指さした。

 指の示す先を見て、凛は首を傾げる。


「りんご飴?」


 男の子は頷く。

 りんご飴をちょうだいと言うことだと理解した凛は、少しためらったが、やがて彼の望み通りにそれを差し出すことにした。

 確かにせっかく買ってもらった大事な宝物だったが、今は何より早く母の元に戻りたかったのだ。



 左手でりんご飴を受け取った少年はまたひとつ頷いて、右手で石の柵の先を示した。

 そうされてやっと、今までずっと柵が続いているように見えたそこに、細い道が存在していることに気づく。


「この先ってこと?」


 少年がうなずくので、不安ながらも凛は一歩、また一歩と道へ踏み出していく。

 道の半ばほどまで来て、まだお礼も言っていないことに気づいた。


「あの、ありがと――」


 言いかけた凛が振り返った時には、もう少年の姿は見えなくなっていた。

 そればかりか、あの風車の群れも石の柵も消えて、辺りはとっぷりと日が暮れている。

 祭囃子と賑やかな人の声が戻ってきていた。


 呆然と立ち尽くす凛の手を、温かな手がぎゅっと握った。見上げれば、心配そうに顔を歪めた母が立っている。



「凛! ああ良かった……! どこ行ってたの、あれほど手を離しちゃダメって……」

「お母さん!」


 泣きそうな顔でひしと抱きついてきた凛に、それ以上怒るわけにも行かなくなった母は、ただよしよしと凛の頭を撫でるのだった。


 りん、と鈴の音がした。




 また、夏が来た。

 あの夏から二十年を経た今も、この街では夏祭りが行われていた。

 当時より人出は減った気がするが、なかなかの混雑だ。

 凛がこの祭りを訪れるのはもうずいぶんと久しぶりのことで、娘が産まれてからは初めてだった。


「ほら、行くよ。ちゃんとママと手を繋いで」


 昔昔の母のせりふをなぞるように、凛は娘に言いふくめる。

 娘もまた、凛のせりふをなぞるように、迷子になどならないと笑っていた。


 祭りの雑踏の中を歩みながら、ふとあの遠い昔の記憶を思い出す。

 祭りの日に会った、狐面の子。

 風もないのに回るたくさんの赤い風車と、黄昏時の薄明かり。


 後から知ったことだが、神社には古くからまことしやかに囁かれる神隠しの噂があるのだそうだ。

 もしあの時、あの子と出会わなければ、あの時りんご飴を持っていなかったら、どうなっていたのだろう。

 考えても仕方のないことだが、あれから神社の前を通るたびにその噂のことが凛の脳裏を過ぎっていた。街を離れ結婚してからはすっかり忘れていたが、今日久しぶりに思い出してみると、薄ら寒いものを感じてしまう。

 物思いに耽る母の姿に何を思ったのか、娘が凛の袖を引いた。


「ママ、見て」

「何を? どうしたの?」

「あの子、変わったお面をかぶってるよ。狐さん。りんご飴を持ってるの」

「え?」


 凛は弾かれたように娘の指の示す方を見た。

 しかし娘の指さす先を見ても、誰もいない。ただ赤い風車がひとつ回っているだけだった。


「ママ、私もりんご飴ほしい」

「そうね、買ってあげるから。ママの手を絶対に離しちゃダメよ。約束ね」

「うん!」


 凛はもう一度風車を見た。

 風もないのに回っている風車を。

 ばいばい、と風車に向けて手を振る娘には、凛には見えない何かが見えているのだろうか。

 あの日の少年の姿を思い出しながら、娘の手を引く凛は足早に人混みへと戻って行った。


 立ち去る凛の背中に向けて。

 りん、と鈴の音がした。

 そんな気がした。

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