15 乾杯をもういちど

 今日は最悪な一日だった。


 通勤電車は車両点検で遅延。やっとのことでぎゅうぎゅうの電車を降りたと思ったら今度はにわか雨。

 会社に着いたら着いたで、デスクのパソコンがエラーを吐き続ける。何とか直した後にはコピー機が詰まった。

 仕事自体も順調なんてお世辞にも言えない。山盛りのトラブルにきわめつけは分厚くなった書類の束だ。


 それでも残業だけはギリギリ回避した。

 退勤後に大事な約束があったから。


 約束の時間、行きつけのバルのカウンター席。

 親友からのメッセージを見て、私は思わず突っ伏しそうになっていた。

 急な残業が入ってしまったのだと言う。


「間に合うかわからない」


 その文面が疲れた心に酷く突き刺さる。

 なんだかもう、すぐにでも大声を上げて泣きたいような気持ちだった。


 何も今日に限って……。

 そんな言葉が口をついて出そうになる。

 今日はあの子に聞いてもらいたい話がいっぱいあったから。

 つらいことがたくさん重なって、それでつい会いたくなったのだ。


 それなのに……。



「こんなのってないや……」


 ただ席を塞いでいるわけにもいかず、かと言ってまた今度とさっくり帰ってしまう踏ん切りもつかない。

 私は仕方なくグラスビールを一杯注文した。


 よく冷えたグラスに、キメの細かい泡。黄金色の液体が揺れている。

 特にのどが渇いているわけでもなかったけど、頼んで放っておくのも気が引ける。

 なんとなく飲み下したビールは、酷く苦い。これっぽっちも美味しいとは思えなかった。


 友人からの連絡は途絶えたままだ。彼女はマメな子だから、余裕があればすぐに返信してくれるはずだ。きっと急なトラブルか何かで忙しいのだろう。

 グラスを水滴が伝い、コースターを濡らしていく。まるで泣いているみたいだ。ビールは無情にもどんどんぬるくなっていく。


 それからずいぶん時間が流れた後に、私はグラスを手に取った。

 もったいないという気持ちが湧いて、苦いだけのビールを飲み干す。

 本当に、ひたすら苦い。ぬるくて、炭酸も抜けてきていて、キレものどごしもあったもんじゃない。

 まるで私の心みたい。

 なんとも無様な乾杯だ。


 私はそのまましばらく、縁に残った泡の残骸を見ていた。

 ベルが鳴り、店に新しい客がやってきたことを告げるけど、視線を上げるのも億劫だった。



 でも――。

 気配は向こうの方から私の近くまでやってきた。

 すぐに聞き覚えのある声が鼓膜を揺らす。


「ごめん! 遅れた! ありがとう、待っててくれて!」


 声は切れ切れで、息は酷く弾んでいた。

 慌てて振り向いたら、真っ赤に上気した彼女の顔。いつもきっちり整えられている髪も、振り乱されてボサボサだ。


「走ってきた! おまたせえー!」

「走ったってそんな、いくら元陸上部だからってさ……」


 あんまり朗らかに、彼女が言うから。

 なんだか涙が込み上げてきて、呆れたような茶化したような私のセリフはシリ切れトンボだ。

 彼女は空になった私のグラスを見て、また笑って言った。


「おっ、乾杯の練習しててくれたんだね? じゃ、これから早速あたしと本番をやろ!」


 二回目のビール。

 よく冷えたグラスに、キメの細かい泡。黄金色の液体が揺れている。

 軽くぶつけ合うグラスのその手応えが嬉しくて。

 今度は苦くない。心地よいのどごし、爽やかな味わい。

 それはきっと、彼女が一緒に笑ってくれているから。


 美味しいお酒を飲もう。

 美味しいものだって食べよう。

 おなかが満ちたらたくさん話して、時々少し泣いたって良い。


 一日の最後くらい、こんな良いことがあっても良い。

 どこまでも優しい、ほろよいの夜。

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