02 紫陽花の涙
ごめんねと、それだけ彼は言った。困ったような笑みを浮かべて、声音はほんとうにただ申し訳なさだけが滲んだもの。
それを見て思い出したのだ。自分はあの困ったような、一種風変わりな笑顔に惹かれて彼のことを好きになったのだと。
仕事のミスをかばってくれた横顔。
そんな彼が浮かべる困ったような笑顔を見て、おこがましくも、頼もしいやら頼りないやらわからないなと思った。
気持ちが、恋と言い換えられる感情に変わっていたのは、いつからだったのだろう。桜がまだ咲いていた頃だった気がするから、長いようで短かかった。
窓の外は雨が降っている。
本降りの激しい雨に濡れて、人々は陰鬱な顔で歩いているけれど、草木は水をまとって清々しく背伸びしている。
昼休みが終わるからと、ありがとうねと、彼の前から去る時の自分は至って普通の振る舞いだったと思う。
背を向けた後方から、安堵の気配が伝わってきたから。
曇り空。
帰宅間際になっても空は変に薄ら明るい。雨は少し小降りになっていた。
ビニール傘を開いて一歩踏み出す。
傘の生地をバツバツと叩く雨の音。どこか規則的なリズム。近くで同じようなリズムが聞こえたから目をやると、立派な紫陽花が咲いていた。
青紫の花が幾つもついている。土のpHで色が変わるって、何かで見たんだっけ。
一瞬雨足が強まる。
青紫のいくつもの花弁に溜まっていた、水玉がふかくれあがってぼろりと零れた。
ぽろ、ぽろり。葉っぱを伝って地面へ流れていく。
紫陽花の涙は、泣けなかった私の代わりの涙みたいだった。
私も紫陽花に付き合って、少しだけ泣いた。
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