被害者に吊るされた男(ハングドマン)①

 その青年は、いつも受け身だった。きょうだいにはおつかいと称して手足として使われ、親に言われるがまま大学に入った。

 友人達も、彼をイジる対象として見ていた。幸い、イジメは受けなかったが、青年はネットでもひたすらイジられる対象で、彼は自分が幸せ者だと感じるとともに、一人になると、決まった言葉を誰にともなく呟く。



「ぼくは、被害者だ」



 ある時、青年は事故に遭い、気付けば見知らぬ草原に座り込んでいた。


 青年が呆然としていると、そこに、不思議な形の飛空船が降りてきた。さほど大きくなく、小回りの効きそうなその飛空船の中から出てきたのは、細身の男と、背が低く胸の大きい女。見たところ、青年と同じ日本人の様だった。

 男が青年の顔を見て、女に何かを伝えた。それを聞いた女は笑顔になり、青年に手を伸ばす。


「ようこそ異世界へ! あたしは海市淳子! 君の名前は?」


「……阿房、です」

 青年は、差し出されたその手を取った。


「我らが〝アキバ街〟は、君の来訪を歓迎するよ。家族に会えないのは、残念だがね」

 男はキザっぽいセリフを言いながら、仰々しくおじぎをした。


 阿房はそのひょうきんな態度に思わず笑みをこぼし、彼らを信じることにした。


 しかし、これが間違いの始まりだったのかもしれない。



 それからの生活は、しばらくの間平和だった。青年は誰にもイジられず、淡々とした生活を送ることが出来た。異世界のはずなのに、まるで秋葉原の様な街、通称「アキバ街」と呼ばれる街。青年はその中に住まいを与えられた。そこには、日本にいた頃と何ら変わりない暮らしがあった。

 アキバ街は町長の異能で作り出された、まさに秋葉原を模した町。この世界に転生、あるいは転移してきた者はほぼ日本人で、恐ろしいことに現世人に先に見つかっていたら、奴隷として戦争に参加させられていたらしい。


 青年はこのアキバ街で、大学で学んだ知識を活かし、医療関係の職に就いていた。


 それは、自分が〝被害者〟である事など、すっかり忘れさせてくれる様な暮らしだった。



 が、しかし。



 ある日、街で諍いが起きた。阿房はそれを止めようとして間に入り、なんとか2人の仲を取り持とうとした。


「うるせぇんだよ! モヤシ野郎が!」

 屈強な体つきの男が阿房を突き飛ばす。


 ──ああ、ぼくは、ここでも被害者なのか。


「そもそも、てめぇが間に入るからややこしくなったんだよ! クソが!」

 もう一方の、目つきの悪い男が阿房に唾を吐く。


 男の臭い唾が、阿房の頰にビチャリと音を立てて張り付く。


「……」

 阿房は黙り込む。こんな時、抵抗してはいけないという事は、日本で死ぬほど学んできた。


「……へっ! 怒る気も失せたぜ! 2度と関わんなよ!」


「こっちのセリフだよ!」


 争っていた男達はバラバラの方向に去っていった。

 阿房はハンカチで顔を拭き、立ち上がってバーに向かった。



「あぼくんはさぁ、ホント、いつもろくな目にあわないよねぇ」

 バーのカウンター席で彼を拾った女、海市が甘ったるいカクテルを飲みながら阿房の頭を撫でる。


「じゅん先輩までぼくを〝被害者〟扱いですか……まあ、いいです。日本でもいつも、トラブルに巻き込まれてましたから」


「ははは。でもさ、この世界に来ちゃったのが一番のトラブルだよねー」

 淳子は少し切なげな微笑みを阿房に向けて笑った。


「……ですね」

 阿房も淳子に向かって薄く微笑んだ、その時。


「阿房先生はいるか!?」

 バーのドアを勢いよく開けて、中に男が入ってきた。


「有江田さん。どうしました?」

 男のただならぬ雰囲気を感じた阿房は立ち上がって彼に問いかける。


「アンタが仲裁したチンピラ2人が……」

 男の顔が、憔悴の色に染まっていく。


「全く同じタイミングで、死んだらしい……」



 阿房の仕事は〝検死官〟だ。

 アキバ街で変死した者の死因を調べる仕事をしている。検死官はアキバ街に何十人もいる。その理由は、彼ら転移転生者達の目覚める異能にある。

 この世界にやってきた日本人の多くは、この街の町長や淳子の様に、突如異能に目覚める。そのため、アキバ街では異能を悪用した犯罪が後を絶たず、それが発覚した者は、犯罪者として幽閉されることとなっている。

異能による殺人も少なくないため、検死官はアキバ街に欠かせない職業の一つとなっている。


 そして今、明らかに異能によって死んだと思しき死体が二つ。


「やれやれ……ぼくを突き飛ばした男と、唾を吐きかけた男を診る事になるなんて。やっぱりばくは、被害者だ」


 阿房は男達の服を脱がす。


「これは……」



 その翌日。

 阿房は淳子と共に、飛行船でレジスタンスの拠点の森へ向かっていた。


「しかし、君がスパイ志願なんてねぇ」

 淳子は怪訝な顔で阿房を見上げる。


「……前々から思ってたんです。この国の人間は肌が白いだけで、目も黒いし、見た目はアジア人っぽい……それならぼくも、レジスタンスの役に立てるんじゃないか……って」


「まあ、あぼくんはお肌真っ白だから、ね……」


 そして彼はレジスタンスのリーダーの許可を得て、五大国の一つ、トンブライのスパイとなった。リーダーによる訓練も難なくこなし、出立の日。


「阿房、お前はセンスがある。だが、慢心はするな。異世界人とバレれば、戦争に送り込まれて、そのまま死ぬだけだ」

 リーダーの庵野が、阿房に拳を向ける。阿房はその拳に拳を当てた。


「もちろん、油断はしません。では……行ってきます」


 振り返り、馬に乗った阿房の表情は……これから自分が過ごす日々への期待で、今までの人生で最高の笑顔になっていた。


 他者から見たその表情は──


 甘美なる果実を知り、神話の女性をそそのかしたかの様な……


 ──邪悪な蛇の微笑み、そのものだった。

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