メガトン開眼(リケジョを目差すメガネ豚奮闘記)

@Kosuge-Yoshio

第1話 入学試験

 大田区と川崎市の境を流れる多摩川は、六郷川と名を変え東京湾に注いでいる。

 その多摩川の左岸に鵜の木学園がある。

 鵜の木学園は、桜の古木に囲まれた私立大学だ。

 大学裏手の土手を越え、河川敷に広がるラグビー場、サッカー場、野球場、ゴルフ練習場を左手に見て、小石混じりの遊歩道を上流に向かい、東海道新幹線の鉄橋をくぐると、「丸子の渡し」跡に出る。

「丸子の渡し」が利用されていたのは、昭和の始めに丸子橋が中原街道に架かるまでだ。

 丸子橋が出来る少し前に創設された鵜の木学園には、白亜の校舎が優美に建ち並んでいる。

 10月の第2土曜日、思わず居眠りをしそうな陽射しの中、鵜の木学園の各学部でAO入試が行われている。

 お昼までに終わる予定だ。

 秋らしい青空と微風の中、ピリピリとした緊張感が鵜の木学園を包んでいる。

 お天気は良いがキャンパスに人影はない。

 入試面接委員の数学科の三人の先生から重苦しいため息が同時に漏れた。

 出来の悪い生徒を朝から面接してきたので疲労の色が濃いのだ。

 ついさっき面接を終えて退室した受験生の出来は特にひどかった。

 そんななか、ドアが元気にノックされた。三人の中で一番若い本多准教授が、きれいなアルトの声で返事をした。

「どうぞ」

 ドアが勢いよく開いた。同時に、黒ぶちの大きな眼鏡が飛び込んできた。今度の受験生は、どんぐり眼の小さな女の子だ。

 ニコニコしたまん丸の笑顔に緊張感はない。

 三人の先生から、眠気、空腹感、けだるさが掻き消えた。童顔から他人を圧倒するエネギルーが放射されたのだ。

 童顔の小さな口が開いた。

「林田です! よろしくお願いします。みんな、わたしのことを『メガトン』と呼びます。メガネ豚のことなの。トンはトンカツの『トン』よ。……女の子には、悲しいニックネームだわ。でも、子豚さんは、かわいいわ。だから、わたし、我慢をしているの」

 そう一気に早口でまくし立てると、赤い通学バックを背中から下ろした。そして、先生達の許可を待つことなく、ちゃっかり椅子に座り込んだ。

 まるで、

『これからあんたら三人をわたしがまとめて面倒みてあげるわ』

 と、先生達を呑んでかかっているように見える。

 メガトンの髪は長い。両頬にかぶる髪を鼻の下で結ぶことさえ出来る。でもそれでは、盗人かぶりになってしまう。

 それでメガトンは、両耳の上でお団子にした髪を頬にかぶせながら、あごの下にカーブさせている。

 まるで黒髪で出来たお高祖頭巾のようだ。

 まずいと思い込んでいる顔の輪郭を少しでも隠そうとの、メガトンなりに考えに考え抜いた工夫なのだ。

 面接委員の高橋剛教授は、出来の悪い学生をビシビシ退学・転学に追い込むことで有名な硬骨漢だ。

 最初の質問は高橋教授から飛んだ。こわい顔だが口調はていねいだ。

「林田君は、数Ⅲを勉強していないね。それなのに、数学科を希望する理由はなんなのかな?」

(口頭試問用に用意してきた数学の基礎的な問題は、メガトンには解けそうにない)

 と、高橋教授は予測しているのだ。

『不合格』の結論を出すための形づくりの質問のつもりだ。

 だが、メガトンは動じない。いつもと同じようにマイペースだ。

 大股を広げて、ぶちかましをつぎつぎと受けて立つ横綱のような気迫に溢れている。

 でも、さすがにメガトンは女の子だ。膝をきちんと揃えて、ちょこんと座っている。利かん気な童顔に大きな目がらんらんと輝いている。

「ママさんが入院しちゃったの。お見舞いに行ったら、『世の中で二番目に面白いのが数学』だって言ったの」

 思わず本多裕子准教授が、釣り込まれるように尋ねる。

「一番目は?」

「わたしだって」

「私?」

「一番目はわたしで、二番目が数学なのですって」

 メガトンは、本多准教授を『きれいなお姉さん』と感じる。お姉さんとの会話を楽しみたくなった。

「……いくら実の母親でも、『面白い』なんて、ちょっと失礼よね! ねえ、そうでしょう。わたし、あんまりだと思うの」

 思わず笑みを漏らした本多准教授が表情を引き締め質問を続けた。

「お母さんが大好きな数学を林田さんも勉強したいのね。でも、どうして鵜の木学園を志望するの? 数学科は、あちこちにあるでしょう」

「『鵜の木学園の屋上から多摩川越しに見える富士山が、とっても素敵』……ママさんが、言っていたわ」

 大きな目をクリクリさせて無邪気に答えるメガトンに本多准教授は尋ねる。

「お母さんは、うちの卒業生なの?」

「ママさんは、鵜の木学園で目立つ存在だったと思うの……。お姉さんは、ママさんのこと、本当に知らないの?」

 さらにメガトンは、疑いの言葉を投げる。

「お姉さんは、本当に先生なの? 学生じゃないの?」

 お姉さんと呼ばれた本多准教授は返答に詰まる。メガトンは相手の気持ちに無頓着だ。

「わたしも、『ママさんみたいに、美人で、頭の良い子に生まれたらよかった』のになあって、いつも思うの。本当に残念だわ」

 ここで、五島正太郎教授は、『入試の面接が世間話に陥らないように』と、初めて発言する。

 五島教授は定年が近い年配だ。数学科のまとめ役だ。

「このメモに数学の問題が六題書いてあるね。解いてみてごらん。横のホワイトボードを使用してもいいよ」

 メガトンは予期せぬ事態に思わず聞き返す。

「担任の先生は、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)は、ALL OKAY入試の略だって言っていたわ。わたし、試験は面接だけだと思ったのに……」

 予想外の展開に、メガトンは唇をかむ。

「入試勉強は、これから始めるの。まだ準備中よ。数学科に入れるって決まったら一生懸命勉強するつもりよ。ひょっとして、わたし、今、これを解くの?」

 五島教授が、ことさら重々しい声で指示する。

「そう。今、解くの。どの問題から解いても、いいよ」

 バドキチ(バドミントン気違い)だったメガトンには、問題の意味、それどころか記号の意味すら分からない。それでも、メガトンは決してめげない。逆に質問を返す。

「この『8』の字を横にしたような記号、どんな意味?」

 メガトンからの質問に渋い顔をした高橋教授が答える。

「それは無限大の記号。君、そんなことも習っていないのかい!」

 高橋教授の発言に、メガトンが怒った。

「習ったのだと思うけれど、覚えていないわ。習ったことをみんな覚えているほど、わたしは頭がよくないの」

 喜怒哀楽が正直に顔に出るメガトンに、本多准教授は好感をもつ。

 不満そうなメガトンの目が高橋教授を睨みつけて口を開く。

「……先生だって、初恋の人の右目と左目の、どちらが大きかったのか覚えていないでしょう。でも覚えていなくても、好きだった人は好きだった。もっとも今でも好きなのかしら?」

 高橋教授はメガトンの問いかけを無視する。仕方なくメガトンは、話を数学に戻す。

「……もっと分かりやすい問題にすべきだわ! 数学は記憶力が勝負なの?」

 小さな口をとがらせるメガトンを高橋教授がいなす。

「数学者『ヒルベルト』に面白い逸話が残っている」

 メガトンは高橋教授の話の腰を折る。

「その『ヒルベルト』さんって先生の恩師なの?」

「僕が生まれた頃はとっくに亡くなっているよ」

「どこの国の人?」

「ドイツ生まれの『現代数学の父』と呼ばれる大数学者だ」

「男なの女なの?」

「父だから、もちろん男性だ」

 五島教授がメガトンをとがめるように口をはさむ。

「林田君、まずは高橋先生の話をきちんと聞きなさい」

「わたし、ちゃんと聞いているわ。わたしに遠慮しないで、早くどんどん話して!」

「若い人が晩年の『ヒルベルト』に数学の論文をみてもらったときのエピソードだ」

「何があったの?」

「ヒルベルトが若い人に質問したそうだ」

「大先生なのに論文の中身が分からなかったの? きっと耄碌していたのだわ」

「耄碌していたのではない。質問は、『君、この論文は、良く出来ているけれど、いったい誰が書いたのだ?』だったのだ」

「それじゃあ、『ヒルベルト』さんは論文の中身を理解していたのね。それで、質問にどう答えたの?」

「先生がお若い頃に書いた論文です」

「うっそ! でも本当だったら、わたしにも望みがあるって言うことよね。先生、とてもいかつい顔だけれど、おもしろい話も出来るのね。見直したわ」

 すると、メガトンを救済するように、五島教授が予定外の質問をする。あらかじめ用意してきた極限や微積分の問題は出来そうにないと見切ったのだ。

「『男は、みんなオオカミだ』の否定文をつくってごらん」

 メガトンのド近眼に特有な大きな目が、くるくると回転した。そして、答えを捻り出した。

「男にも少年期がある。……もちろん、幼年期もあるわ」

 これを聞いて、女性の面接官である本多准教授が合否を度外視して微笑んだ。

(いい答えだわ。名解答よ! その調子で頑張って!)

 しかし、五島教授は出来損ないの解答に残念そうだった。

(やはり、この子は数学科には向いていないな)

 でも念を押した。面接時間は、まだたっぷり残っているのだ。時間を余してもしょうがない。

「単純に文章を否定したら、どうなるのかな? 文章の内容が正しいかどうかを訊いているわけじゃないよ」

 五島教授の口調は少しきつかった。しかし、メガトンは、ほがらかに回答した。

「少なくとも一人の男はオオカミではない」

 この答えに、五島教授に代わり高橋教授が突っ込んだ。太く濃い眉が相手を威嚇するようにつり上がっている。でも悪気は無い。これが地なのだ。

 ついさっきのメガトンからの『いかつい顔』に対するしっぺ返しを兼ねた質問のようにみえる。

 しかし、意地悪ではない。高橋教授は、童心に返っているのだ。意外と子供好きなのかも知れない。

「『鵜の木学園の女子学生は、みんな身長一五〇㎝以上だ』の否定文は?」

 唇を噛みしめ、身長一四五㎝のメガトンが考え込んだ。

 そして、重苦しい沈黙を破った。

「鵜の木学園の女子学生の少なくとも一人は身長一五〇㎝未満だ……」

 メガトンの眼が挑戦的に燃えている。

「わたしチビだけれど、体は丈夫よ。とくに足腰のバネは抜群」

 答えを聞いて、高橋教授が強い口調でたしなめる。でも、目が笑っている。

「質問していないことにまで答える必要はない」

 ふくれっ面のメガトンに、高橋教授は追い討ちをかける。

「……それに、足腰のバネは数学とは関係ない」

「チビでみっともない顔でも数学を学んでもいいの?」

「背の高さや容貌は、数学を学ぶこととは無縁だ。もっとも感情的な人は向いていないね」

「わたし、ヒステリーじゃないわ。十分、理性的だわ」

「必要なのは美的センスだ。理性ではない」

「わたしのこと、『理性に欠けていそうだけれど、何とかなるかも知れない』と、先生は言ってくれているのね」

 メガトンは、勝手な理屈を並べる。

「……嬉しいわ。わたし、美的センスはあるわ。悲しいけれど、自分がみっともないって、よく分かっているもの」

 メガトンが、しんみりと三人の面接官に問い掛ける。

「めがねを掛ける前のわたしのあだ名、知っている?」

 もちろん、だれも知らない。

「白豚だったのよ。ひどいでしょう。でも、そんなことでくよくよ悩むのはやめにしたの。だから、わたし、みっともないのに小さい頃から慣れているの」

 これを聞いて、朝から出来の悪い受験生を相手にしていた高橋教授が怒ったように発言する。

「君! ここは入学試験の会場だぞ。もう少し、まじめに試験を受けなさい」

「わたし、まじめだわ」

 さらに険悪になりかねない面接室の雰囲気を五島教授がとりなした。

「面接をこれで終了します。ご苦労様。荷物を忘れずに。……次は英語の試験だね。頑張るのだよ」

「うん、次も頑張る。任せておいて。やさしいのね、おじいさん」

 相変わらず明るく振る舞うメガトンだが、『試験に失敗した』との思いが突き上げた。すると、珍しく顔が強ばった。

(せっかくママさんの大好きな数学を勉強しようと決心したのに台無しね。これじゃあ門前払いだわ……)

 メガトンは不出来な試験結果に苦笑いだった。

 しかし、つぎの瞬間、ママの声が聞こえたような気がした。

「ありがとう。雅子。ママの大好きな数学を勉強する気になってくれただけで、うれしいわ」

 その途端、険しかったメガトンの表情が一変した。

(今年がだめでも、来年があるわ。来年がだめでも、去来年があるわ。あの怖そうな先生だって、来年は、いなくなるかも知れないし……。

 それに美的センスなら、なんとかなりそうだわ。数学ってママさんが言っているようにおもしろそう!)

 メガトンの大きな瞳が、くるくると回転した。そして、いかにも嬉しそうに大声を出した。

「落ちても、来年また必ず入学試験を受けに来るからね、おじいさん。じゃあ、元気でね。また、会おうね。わたし、絶対に鵜の木学園に入る! そう決めたの! 今度は、きちんと勉強してから来るわ。待っていてね」

 そう言って意気揚々と面接室を出て行くメガトンのふくらはぎに、本多准教授は目を見張る。

 うらやましいのだ。黒いセーラー服と、黒いソックスの間のふくらはぎが真っ白だ。光沢のある白ではない。しっとりした白だ。弾力がありそうだ。

 去って行く後ろ姿を眺めながら、本多准教授がつぶやいた。

「あの子、何が、そんなにおもしろいのかしら? 急に笑顔に戻ったわ」

 一方、五島教授の頭は久しぶりにフル回転している。

 鵜の木学園で、「おじいさん」と初めて呼ばれたショックから完全に立ち直っている。

(あの子のお母さんは、多分、四十五才前後だ。教え子の中に特別優秀な女子学生が確かにいたなあ。鼻筋の通った細面の美人だった。しかし、名前が思い出せない。二十年以上も昔の話だ。それに、この年だ。しかたがないか……。

 それにしても、年をとると固有名詞が出てこない)

 次の受験生が遠慮がちに試験場のドアをノックした。

 五島教授は我に返り、焦げ茶色の老眼鏡を掛け直した。そして、もう一度メガトンに会って話がしたいと思った。

 採点表に記入し終わった本多准教授の声が響いた。

「どうぞ」

 黒い詰め襟の学生服を着た受験生が、受験票を右手に緊張した面持ちで入ってきた。

 直立不動の姿勢だ。

 入学試験のいつもの雰囲気が戻ってきた。

(あと二人の受験生で試験が終わるはずだ。あと、もう一踏ん張り!)

 面接官は元気を取り戻したように見える。

 しかし、三人の先生とも、『元気の素』をメガトンからもらったことには気付いていないようだ。

 一方、捲土重来の意志を固めたメガトンは、その夜、長崎空港に降り立つとそのままママの病室に直行した。

 試験の様子を笑いながら聞いていた母は、鵜の木学園の対応に満足気だった。

「雅子」

「なーに、ママさん」

「万が一合格したら進学するつもりよね」

 不合格を覚悟していたメガトンは、母の問いかけが意外だった。

「わたしに合格の可能性はあるの?」

「知識はないけれどセンスはあると判断してくれたら、可能性は0ではないわ」

 メガトンは母の言葉が信じられなかった。「なぜ0ではないの?」

と、メガトンは尋ねようとした。

 しかし、母は静かな寝息をたてていた。

 ママと頬を合わせたメガトンは、そっと病室を後にした。

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