第3話 夏目漱石と兄嫁
うちの課長は普段あまり話さないが、なぜか朝礼では話したがる。しかも独りよがりな内容なのが良くない。
「夏目漱石という人は・・・」
はぁ、今日は夏目漱石か。
まるで学校の先生のような話に朝から嫌気が差す。これだからオッサンは困る。課内の女の子達も、課長が実際にはさして良くもない自分の頭の良さをひけらかすのが気になると話している。
「夏目漱石という人はすごい人だと思っている方もいると思いますが、彼は妻子に暴力を振るう人だったそうです。彼の作品の内容をみても、主人公は自分の妻を幸せにしようとしなかったり、他人の妻を奪ったりと、とても誉められたものではありません」
夏目漱石って、そんな人だったのか。
「ただ彼には彼の言い分があって、夏目漱石の妻は朝起きることがなく、朝ごはんも作らずお弁当も作ってくれませんでした。妻はそれに対してこう言ったそうです。
私が朝早く起きないから、あなたは1日を気持ちよく過ごせるのです。私が朝早く起きたら私は不機嫌で、あなたはそのために1日嫌な思いをするのですから、と」
とんでもない嫁だ。
とは言えご飯を作るのは女性の仕事だ、という昔の考え方にも問題はある。夏目漱石の妻は時代を先取りした考え方の持ち主だったのだろうか。
いや、それ以上に引っ掛かるのは、この話がどこかで聞いたような話であることだ。
俺は母親といる時間があまりなかったが、夏休みは比較的一緒に過ごすことができた。それも実は良い思い出ではなかった。
朝は起きない。当然ご飯も作ってもらえない。起きたと思ったら「いつまでもいつまでも休みで家にいて鬱陶しい!」と怒られた。
小学生が夏休みでうちにいるだけなのだが、それで怒鳴られるのである。
「夏目漱石の兄嫁は、彼に毎日弁当を作ってくれたそうです。そんな兄嫁に夏目漱石は惚れていたようです」
おいおい、妻に劣らず夏目漱石もとんでもないやつだな。妻子に暴力を振るい、あまつさえ他人の妻に横恋慕か。しかも兄嫁ときている。
「兄嫁はスタイルも良く美人だったそうです。しかし兄嫁は早くに亡くなってしまいました。夏目漱石の人生のなかで、最も彼に良くしてくれたのは兄嫁だったかも知れません。
と言うのも夏目漱石は実の両親に育てられていません」
なんだって?
「彼は生まれてすぐに里子に出されました」
・・・・・・
「里親のもとから戻ってきて、また養子に出されました。養父母はいつも、私は誰だい?と訊いてきて、お父さん、お母さんと言わせていたそうです。このことが漱石の心に強烈に残っていたように思います。
実家に戻ることができましたが、大人になると養父からお金を何度も無心されたそうです。
夏目漱石は家族に恵まれなかったがゆえに、妻子にもうまく接することができなかったのかも知れません」
それには納得がいかない。
家族に恵まれなかった人間が妻子にうまく接することができないのなら、その人は一生幸せになれないではないか。
ただ、家族に恵まれなかった思いは付きまといはする。それが自分をイラつかせてしまう。
そう、自分がそうだから。
夏目漱石と同じように、自分も生まれてすぐに他人に預けられた。しかも預けられた先が最悪だった。
その女はうちの親からお金を受け取っているにも関わらず、俺の面倒などろくにみなかった。むしろ虐待されていた。
よく子どもが亡くなる事件を耳にするが、そのいづれのパターンも自分が子どもの頃経験していたものだった。
よく死ななかったな、俺。
ともかく、家庭に恵まれなかった人間が、一生恵まれないままで良いはずがない。少なくとも夏目漱石は兄嫁に恵まれた。そう、夏目漱石は恵まれたのだ。
自分は?
努力したものの、彩子ちゃんに振られ、今のところ恵まれる様子はない。
そうだ、あの子、昨日会ったあの子はどうだろう?
俺に恵みをくれるんじゃないだろうか?
あの子こそ、運命の相手なんじゃないだろうか?
いつの間にか課長の話は終わっていた。必ず最後に教訓を残すのだが、今日の教訓がなんだったのか聞きそびれた。普段はどうでも良いが、今日は聞いておきたかった。
今まで夏目漱石と言えば、イコール文学史、イコール勉強、というイメージがあって近寄りたくなかったが、今は違う。
夏目漱石を学ぶことで何か見えてくるような気がする。だから学校で夏目漱石を学ばせようとするのだろうか。文学は本当に意味のあることだったんじゃなかろうか。
勉強は役に立つから勉強しなさい、と言うのは大人の常套句で、俺はそんなオッサンにはならないし、そもそもオッサンじゃないと思っていた。
思っていたのにオッサンになってしまうんだろうか。
でも、もっと夏目漱石のことを知りたいと思う。それが今の自分に必要なのだと感じるのだ。
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