第2話 燃える葡萄酒と桃の蜂蜜漬け

 受験の極意は誰よりも早く試験会場に入ることだ。

 そうすることによって、大勢の受験生の中に入っていくというプレッシャーを感じなくて済む。


 失恋も同じだ。職場の同僚との失恋の次の日は、相手よりも早く職場に行き、職場に入りづらいというプレッシャーを感じないようにする。

 今日はいつもより30分早く職場に着いた。

 彩子ちゃんより早く職場入りだ。


「今川さん、おはようございます」

「おはようございます」

 ・・・って、誰?


 知らない女性に話しかけられた。

 結構かわいいな・・・

 う~ん、恋の予感か!?


 そんなことを考えていたら、いつの間にか20分も経っていた。

 どうやら20分も知らない彼女のことを妄想していたらしい。


 そろそろ彩子ちゃんが出勤する頃だ。

 彼女はいつもこのくらいの時間に出勤する。

 とにかく息を整えよう。


 す~~~は~~~

 す~~~は~~~

 す~~~う!あ、彩子ちゃんだ。


 「あ、我妻さん、お、お、おは、おはおはよう」

 ・・・

 ・・・

 え!?

 あっという間に通り過ぎて行った。

 

 彼女は今どんな気持ちなんだろう。

 俺のこと、どう思ってるんだろう。

 本当に女性の気持ちはわからない・・・



 どっと疲れた一日だった。

 結局終始彩子ちゃんのことが気になって仕事に身が入らなかった。

 そして精神が疲れた。


 こんな日は桃の蜂蜜漬けに限る。

 うちの母親は、というか父親もだが、あまり会ったことがないし、会っても他人という意識しかなかった。それくらい俺に何もしてくれなかった。何もしなかった上で小言だけは言ってくる。

 そんな母親の作る料理、というか料理もそもそもあまり食べさせてもらったことがないが、とにかくその料理の中でも桃の蜂蜜漬けは絶品だった。

 記憶を頼りに桃の蜂蜜漬けを自分で作ってみたのだが、母親の味には到底及ばなかった。作り方を聞くこともできず、やむを得ず試行錯誤しつつ作っている。

 多少味がきついものの、こういう疲れた時は甘いものが一番。自分にとっては桃の蜂蜜漬けが一番なのだ。


 3分の1ほどしか残っていないブランデーをグラスに注ぎ、グラスの底を手のひらで包み込んだ。そしてグラスを揺らしながら香りを楽しんだ。

 自分の脳にまでブランデーの香りが到達したように感じてからしばらく浸り、一口二口と少量ずつ口に運んだ。

 ブランデーはフランス語では「命の水」と呼ばれるらしい。なぜ「命の水」と呼ばれるのかは知らないが、自分にとってしっくりくる呼び名ではある。

 充分に「命の水」の香りと味を楽しんだ後、本命である桃の蜂蜜漬けに手を付けた。


 命、女性、桃・・・。この3つは関連性がある。

 命を産むのは女性であり、童話の桃太郎の基の話では桃を食べたおじいさんとおばあさんが若返り、桃太郎が誕生する。桃からではなく、若返ったおばあさんから産まれる。また、中国では寿命を司るとされる西王母と桃に密接な繋がりがある。


 二十代の頃はこんなことを考えたりはしなかった。

 そして30では、まだこのことが意味することがわからない。

 40になったらわかるのだろうか。


 恋のことも二十代の頃とは考え方が違う気がする。

 明らかに結婚を意識した恋だったと思う。

 だからショックも大きかった。というか、今もショックの最中だ。


 ショックの最中なのにこんなことを考えていること自体が珍しいとも思う。


 今日会ったあの子、明日探してみようかな。

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