巻の弐 第五章 攻防

第20話 危急な中のおぼろ影

 黒丸はお市達より先に外へと飛び出し、小舟のあたりを見回して害意を振り撒く人間が居ないか見渡すと、問題ないとワンと一声鳴いた。


「有難う黒丸。藤次郎……行こう」


 お市は藤次郎に目配せすると、川面へとバタバタ羽ばたきと叫び声を上げながら鵜が逃げていく中に紛れて、藤次郎と共に外への小舟へと急ぐ。

 すると、誰もいない筈の小舟の近くから、月明かりを映す白刃のきらめきが一つ。


 お市と藤次郎はすぐさま気が付き、脚を止めた。


「黒丸っ、お願いっ」


 お市の叫びに黒丸は反応すると、白刃を構える黒い影の許へと走っていくと、


「わんわん」


 と話しかけるように吠えた。

 黒い影は刀を振り回すようなこともせず、黒丸を見て、


「あれっ? まさか・・・・・・黒丸かい?」


 と命のやり取りが始まっている修羅場に全くそぐわない素っ頓狂な声を上げていた。

 あの声には聞き覚えがある。

 お市も藤次郎も刃の光など気にすることもなく、その声の方へと駆け寄った。


「門馬様っ」


 優しげな顔に似合わない刀を抜いて構えるのは、間違いなく毒を飲まされ、お市達に助けられた門馬兵庫之介その人であった。

 お市と藤次郎の姿を認めると、


「お市さん、藤次郎さん、ご無事で」


 と、ホッとした顔をして声を掛けた。

 お市は困惑顔で、


「門馬様、何故このような処に? ああ、その前にここは危ないので直ぐに退きましょう」


 事の次第を尋ねかけたが、逃げるが先決と小舟に乗り込もうと、兵庫之介の手を引いた。

 兵庫之介はお市の手の暖かさにどぎまぎしながらも、その手を優しく外して、


「いいえ、私は援軍として此処に参りました。貴女方だけで舟にのって、真っ直ぐにこの先の中州迄進んで下さい。そこに信頼のできる手の者が居ります。武士の端くれでもありますので、逃げ出すわけには行かぬのです」


 と申し訳なさそうに返答をするのだが、相手が悪い。

 命が係わっているこの状況で、はいそうですかと聞き分けが良いはずも無いお市は、何を言っているんだ、こいつは、と言葉よりも雄弁な顔色で、きっと兵庫之介を睨みつけると、


「貴方も一緒です。門馬様っ、早くっ準備為さいっ。藤次郎っ、ハラミツさんに声をっ。黒丸っ、アオと一緒に辰じいの処へ、急いでっ」


 月明かりが明るいとはいえ夜であり、ひそめた声音でも在りながらのお市の叱咤に満ち満ちた大層な迫力は、藤次郎にも兵庫之助にも二の句を継がせない程にしっかりと届いた。

 黒丸に至っては、こんな時だからこそ、お市の傍から離れるなど有り得ない筈が、わふっと一声返すとすぐさま駆け出すくらいである。


 お市は黒丸を見送りながら、兵庫之介の腕を取り小舟へと引っ張ろうとしたのだが、根を張った立木のようにびくりとも動かない。


 毎日、野や山を駆け巡り、鳥獣見立て指南が本業とは言え、力尽くで暴れる獣を取り押さえる事も多々あり、何よりも馬借の家の娘である。

 身を守れるようにと、辰吉と祖母の照に、「まあ、そこそこだ」と認められるくらいには鍛え上げられており、可愛らしい見た目とは相反して、逞しくて力も滅法強い。


 そんなお市が力一杯引っ張ったのに、微動だにしないその姿に、お市はただただ驚いただけだが、藤次郎は強い警戒心を持った。


 ただ者ではない。

 優男風に見せかけていて実はとことん鍛え上げられている。


 藤次郎はすぐさまお市を小舟の方へと押しやって、


「分かりました。門馬様。仔細は後ほどに。姉さんっ、早く」


 姉から兵庫之介を離して様子を見つつ、逃げ出す算段を取っていた。

 だんっ、だんっ、だんっ。

 乾いたやや大きめの音が表から響く。

 鉄砲の音である。

 お市も藤次郎も顔をしかめたが、兵庫之介は顔色一つ変えてはいない。

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