巻の弐 第三章 予兆

第12話 掠れる景色

 お市はどうにも得心がいかず、落ち着けなかった。

 前はけんもほろろの門前払いで、馬の骨呼ばわりだったのに、今回は主人夫婦が門前迄わざわざ出迎え、畳敷きの贅沢な離れの客間まで準備万端である。

 早速にも、鵜を診ましょうと申し出たのだが、


「いえいえ、今日の処は遠くからお越しなのですから、まずはごゆるりと足を延ばしてください。明日の朝からでも十分でございますので、お寛ぎ下さいませ」


 と、日が高いにも関わらず、仕事に呼ばれた職人どころか、宿に逗留にきた馴染みのお大尽のような扱いである。


「藤次郎……何かおかしくない? お父っさんの手紙だけでこうはならないよね?」


 お市の大きな瞳に疑問の陰りが浮かぶ。


「うん、凄くそう思う。間違いなく裏がある。でもこれは、おいら達にはまだ荷が重すぎる。辰吉さんに頼ろう」


 藤次郎も同じ思いなのだろう。端正な顔つきがずっと渋面のままだ。

 もっとも、この家の若い女中が藤次郎の美少年ぶりに当てられて、何くれにつけ手取り足取り面倒を見ようとすることに辟易しているだけかもしれないが。

 辰吉はというと、普段の厳しさは何処へ行ったのかとお市と藤次郎が驚くほど、ニコニコしながら頷き、


「これはこれは、ご丁寧にお言葉に甘えさせて頂きます。ついでと言っちゃあ何ですが、あっしには美味い酒と肴、お市嬢と若党には茶うけに何か菓子などあれば嬉しいんですがね」


 まるでタカリのような物言いで、余りにも辰吉らしくない。という事は……

 お市も藤次郎もすぐさま、その意図を察した。探りである。

 何をどう探ろうというのかは分からないが、辰吉の邪魔をするわけには行かない。

 二人とも口をつぐみ、様子を見ていることにした。

 主人夫婦に年季の入った女中も、町人風情の年寄りの居丈高に気を悪くする表情すら見せず、


「ああ、お安い御用です。すぐさまご用意致しましょう。お部屋へ運ばせます」


 と頷きながら即答である。


「折角のご厚意です。お市嬢今のうちにゆっくりさせて頂きましょう。伊平もついでだ。一緒にご相伴に与ろうや。ああ、そうそう、慌てすぎてがっついて喉なんか詰まらせたら、恥ずかしいからな。がっついちゃあ駄目だぞ。いいな?」


 そう二人にじっくりと目線を送る辰吉に、お市も藤次郎も笑顔で返したのだが、背筋にはうすら寒いものが奔っている。

 辰吉が話した言葉はおつかわし屋で用いるまさかの時の隠語である。

 内容は、慎重に事を運び身の危険を感じ取れ、であった。

 心からくつろいでいるのは、色々な見知らぬ人にエライと褒められ撫でられている黒丸だけである。


 何が起きるのだろう?

 お市の心の奥底で小さな不安が芽生えていた。

 その小さな不安はお市をお市らしからぬ、怖気の中に追い込んでいく。

 どうしよう。どうしたらいいのかしら?

 お市は、山人の賊たちと争った時の死の淵まで追いやられた時の怖さが、心の奥底の底、自分でも気づけない程の深い処で拭えないでいた。

 お市の不思議は今、鳴りを潜めている。

 元々懐いている鳥獣以外、言う事をきかせることは出来ず、何か指図しようとしても気が散じてどうしようもなくなってしまうのだ。

 おつかわし屋の周りにいる鳥獣たちは、そもそもお市の味方であって、普段から気安く色々手伝ってくれるのだが、見知らぬ獣たちはそれこそ、指図するどころか場合によっては襲われかねない。言う事というか気持ちは分かるのだが、ただそれだけなのだ。

 余計な心配をかける事を嫌うお市はこのことを藤次郎にすら伝えていない。

 いつも通りの生活ならば、どうという事はないと自分に言い聞かせ誤魔化していた。

 そして、それがずっと心の中で影を落とし、それが少しずつ大きくなっている事を知るものは誰もいない。

 藤次郎も辰吉も、お市の様子に敏感なアオも黒丸も、当のお市さえも。

 川面に夕日が映えてきらきらと輝く中、水面へと躍り出た鯉が放った波紋が、美しい景色を揺り動かしていく。

 波紋は、美しい光景を千々に乱しながらその姿を変えていく。

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