第8話 お救い小屋の灯明は

 お市は少しばかり焦っていた。

 狼の仔の様子がどうにも良くない。

 おっ母狼と白眉に囲むように温めてもらって、調合した重湯を少しずつ飲んでもらうのだが、吐き戻すし、体力が持つのかが不安なのだ。

 なまじ、狼の仔の声が届くばかりに余計に心配になって来る。

 夜の裡に藤次郎が到着し、夜通し二人で狼の仔の様子を見ながらも、若いお侍門馬兵庫之介の事を考えていた。

 あのような見立てができる人はそうはいない。加減さえよければ直ぐにでも来て欲しい。

 お市は薬草を手に、広がる青空を祈るような思いで見上げていると、姿が見えなくなっていたアオの声が、ぶるるるるっと聞こえた。

 その後ハアハアと息も荒く、


「ご、御免っ。……も、門馬兵庫と申しますが……お市……さん……はこちらで」


 兵庫之介の声がする。


 お市と藤次郎は目を合わせて驚いた。

 お市が頼んだわけでもないのに、アオが兵庫之介を連れてきたのだ。

 アオが見知らぬものをここまで道案内をするということ自体が驚きであるのだが、頼まれてもいないのにつれて来るという事が大いに驚きなのだった。

 肩で息をしている兵庫之介をお市は笑顔で出迎えると、


「お侍さ……いえ、門馬様。早速のお越し有難うございます。ますは、これをどうぞ」


 くみ上げたばかりの清水を竹で出来た湯呑で渡した。

 ぐいっと飲んだ兵庫之介の表情が変わった。


「これは、なんと清涼で甘やかな…このような水は初めて頂きました」


 と言うとぐびぐびとすっかり飲み干した。


「お気に召して戴いて良かった。水瓶の中に藍の葉とシソの葉に忍冬の花を浸してあります。少しばかりでは有りますけど生水よりはいいかなと思って」


 兵庫之介が来てくれたと大きな笑顔のお市のその可愛さに、兵庫之介は目を奪われドキリとした。お市の笑顔に心を搔っ攫われて、後ろ姿を見送り乍らぼうっと立ち尽くしている、その時である。


 ぐるるるっと怒りのこもった低い唸り声が聞こえて振り返ってみると、白眉が兵庫之介を剣呑な目付きで睨んでいた。

 今にも噛み殺さんばかりの雰囲気に肝を潰した。


「いやっ、あ、あのっ」


 と後ずさる兵庫之介は腰に手を遣り刀を探した。刀は先程アオの籠に入れたままであり、今は丸腰である。

 白眉の顔がますます剣呑になる。


「いやっ、ち、違うんだ。そ、その」


 ぎらぎらとした眼をしながら白眉がゆっくりと歩いてくる。兵庫之介は左手を前に構えて、最早これまでと覚悟をした。すると、


「白っ、駄目だよ。お客様なんだから」


 と白眉の背後から藤次郎が声をかけた。白眉は藤次郎の足元へ駆け寄って嬉しそうにまとわりつく。

 藤次郎は白眉の頭をわしわしと撫でるとその首を兵庫之介に向けて言った。


「いいかい。あのお侍様は仲間だ。悪い事はしない。前もあっただろ」


 白眉はじろりと兵庫之介を見たが、そのまま藤次郎の先を歩いて土間に座りこみ、一人肝を冷やし青い顔をしている兵庫之介は小屋から出ると、冷や汗を拭い乍ら、息を整えている。

 その様子を裏から戻ったお市が見つけ、


「門馬様、どこかまだお加減でも悪いのですか」


 と声をかけたが、返答が無い。兵庫之介は何と返してよいものか、返答が出来なかったのだ。

 お市は、

「みすぼらしい小屋ですが、まずは中へ」


 と案内するが、小屋の中にはあの狼がいる。兵庫之介はうんとも嫌とも言えないまま、動けないでいた。

 蒼白い顔をした兵庫之介を見て、これは具合が相当に悪いに違いないとお市は嫌がる素振りの手を引っ張り、小屋の中へと引き入れた。


「ひっ」


 小屋に入るなり、目の前に白眉に、うっかり悲鳴の様な声を上げてしまい、その声にこたえる様に白眉と母狼が刺すように兵庫之介を見やる。兵庫之介は固まっていた。

 其の時、黒丸が、


「わぅうっ」


 と間の抜けた声で兵庫之介へ尻尾を振り振り、嬉しそうに駆け寄って、藤次郎が明るく声を掛ける。


「門馬様。その犬は黒丸と申します。うるさい奴ですが、可愛がってあげて下さい」


 恐怖に駆られて蒼ざめていた兵庫之介の表情も、あぱんとした黒丸の表情につられて緩んだ。黒丸は兵庫之介に撫でられて、嬉しそうに尻尾を振っている。

 白眉はその様相にしらけたようにお市の方へ向かい、お市に撫でてもらうと少し離れた処で横になった。母狼も仔達の面倒を看ている。

 お市と藤次郎では納められなかったであろう、このひそやかな修羅場は、わかっているのかいないのか、のんびりとした顔をした黒丸によって解決した。

 当の黒丸はまだ嬉しそうに兵庫之介に撫でられている。良い人間かそうではないのかを嗅ぎ分けることにおいては、黒丸の右に出るものはいない。人でも獣でも。

 それは白眉も良く承知している事であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る