第5話 狼と大鷹は絵草紙の如く
白眉は黒丸と共にお市を舐めまわすことに夢中で、おっ母狼は自分の仔の毛繕いをしながら大人しく待っている。
「す、済まないが……ここいらの人は、狼を手なずけているのでしょうか?」
ごくりと唾を飲み込みながら若い侍が藤次郎に尋ねた。藤次郎は笑いながら、首を振った。
「いえ、あんな有り得ないことが出来るのは姉のお市だけです」
「やめてってばぁ」と笑い声と共に嬉しそうに叫ぶお市の声が響いた。
「姉さんっ、そろそろ。黒っ白っ、もうやめなさいよ」
と藤次郎が割って入った。嫌がる狼の頭を持って引っぺがしている。
それを見て若い侍は少なくてもこの姉弟は狼を手なずけているのだと確信した。
お市はようやく起き上がると若い侍を見ながら、
「それで、お侍さんは何の御用でこんなに早くここに。此の仔達を攫う為ではないとは思いますけど」
と尋ねた。
「ああっ、狼達に食われそうになって忘れていたが、私は門馬兵庫之助と申します。早馬の途中でした。早馬と言っても左程に急ぎでは無いのですが、あまりのんびりもしてはいられないもので、助けて頂いて感謝します。では、まずは急ぎの用向きを済ませてからお礼もかねて……」
お市と藤次郎が気の毒そうに兵庫之助を見た。
「お侍さん……えっと門馬様。門馬様の早馬は足の筋目を怪我しているので、ゆっくり歩くことしか出来ないと思います。今無理させると歩けなくなります」
えぇっと言う声と共に兵庫之助は驚いて顔を赤くし、直ぐにこの世の終わりのような表情で顔を青くした。
「そう……なんです……ね。あれ程寄り道をするなと言われていたのに、ついつい、小さい仔を見たばかりに。書簡を届けるのに間に合わないと……あぁ」
門馬兵庫之助は懐から書簡を取り出してへたり込んだ。
「お侍さ……門馬様。手紙位遅れても死ぬわけじゃあ無し、そんなに心配しなくても」
「姉さん、姉さん。門馬様はお武家さまだよ」
藤次郎はひそひそ声で姉の言葉を遮ると、切腹の真似事をして見せた。お市はあっと言ってからこの若い侍をじっと見た。
二本差しの侍ではあるが偉そうなところが無く随分と弱弱しく感じる。
良い人であるのだろう。言葉や物腰からひしひしと感じとれる。
迫力に大きく欠けるし世渡りは下手なんだろうなあ。
お市の虫がムズムズと動き出した。先代初次郎を色濃く受け継いでいると周りに言わしめる、お節介の虫である。
「門馬様。それは何時までに何処へ届けなければならないのですか?」
「明日の昼までに、新町という宿場町の宿へですが……」
お市はふむと考えると、
「あたしがそれを無事に届けたら、この仔達を一緒に看て、そして約定を二つほどお願いしたいのですがよろしいですか?」
と悪戯な眼で兵庫之助を見上げた。
真っ直ぐに見つめるキラキラとした表情に兵庫之助は眼を逸らしつつ話した。
「宿も取ってありますので、ふ、二日くらいなら、な、何とかなると思います。狼の仔の面倒もきちんと見ますし、約定も私だけで出来る事であれば、お約束いたします。でもすぐさま早馬の手配となると、当てはあるのでしょうか」
うふふっと悪戯に笑うお市の笑顔を遮るように、藤次郎がぺこりと頭を下げる。
「御無礼をお許しください。申し遅れましたが、姉のお市に弟の藤次郎と申します。私共の父母は馬借座を営んでおり、家に戻れば早飛脚用の馬も置いて御座いますので、ご安心を」
「あら、藤次郎、早馬は要らない。門馬様、先様宛への書状とお届け先の書付をお願い致します。新町の八幡様に知り合いがいますので、届けて貰えるように手配します。藤次郎あれ」
お市の指さす方に青々とした立派な竹林が在る。藤次郎は察して、
「分かったよ。本当にもう」
とぶつぶついうと山刀片手に向かい、一本竹筒を作ると持って来た。
お市は其れを手に取ると、
「あら丁度いいじゃない。門馬様、その書簡と書付をこの竹の中に入れて下さい」
と手渡した。
云われるがままに書簡と今書いたばかりの書付を丸めて竹筒の中に入れると、お市は笹の葉と蔓で器用に蓋をし、竹筒に小刀で〝一平じいへ、おいち〟と書いて札の様にぶらさげた。その間に藤次郎はアオの荷を下ろし、籠を支える鞍だけにした。
「姉さん。準備できたよ」
「有難う。門馬様、藤次郎のところまで下って下さいな。ちょいとだけ、危ないかもしれませんので。アオ宜しくね」
お市はそう云うと懐から竹でできた小さな呼子を取り出し、空へ向けて高らかに鳴らした。
呼子の音がぴぃぃと高く響く。直ぐその後に同じように高い声がしたかと思うと、真っ黒の大きな影がアオの背中に風を巻きながら舞い降りた。
「ぶるるるっ」
アオが迷惑そうに横目で嘶き、
「ギエーッ」
と大きくて白い影が翼を収めながら威嚇する。
門馬兵庫之助は驚いた。息をするのも一瞬忘れるくらいに驚いた。
お市の呼子でやって来たのは其れは立派な熊鷹であった。
身体つきも随分に大きく、頭の二本の羽を前立ての如くピンと立て、腹の模様は雪の様に真っ白で、全体的に力強くて実に美しい。
殿さまの鷹狩の鷹を間近で見たことがあるが、目の前の鷹と比べれば比較にすらならない。
藤次郎がひそひそ声で兵庫之助に言った。
「あの鷹は雪片と申します、姉のみになついている大鷹です。少しばかり狂暴な気があり、姉以外の言う事は聞きませんが、大変賢い大鷹ですのでご安心を。ただ迂闊には近付かないで下さい。眼を突かれます」
藤次郎がそう言い終わると同時に、雪片という大鷹は、ぎゃぁーっと威嚇するように兵庫之助に向って鳴いた。
びくっとなる兵庫之助であったが、同時に雪片の美しさにも心奪われていた。気が付くと手を伸ばして一歩踏み出していた。
その様子を見て、雪片が翼をやや拡げて首を低くし、眼を爛々とさせている。襲う気満々だ。
「駄目よっ、雪片。大事なお客様なんだから」
お市はそう言いながら黒丸位軽々と持ち上げてしまいそうな太くて大きな鉤爪に竹筒を握らせた。
「落さないでね。一応藁で結わえておくから後で千切って。これを新町の八幡様の一平爺に届けてね。新町の八幡様、一平爺。御願いよ」
雪片は兵庫之助から視線を外さず睨みつける様にしていたが、一声鳴くとお市に顔を摺り寄せ、高く舞い上がり忽ち空の彼方へ消えた。
兵庫之助は其の姿を見送りながら、「何と摩訶不思議な。まるで草紙の中にでも迷い込んだ気分だ」と呟いて、改めて姉弟を見た。
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