第3話 初次郎の月命日に


「おじい、おはよう」

 

 夜も明けきらぬ早朝、お市は仏壇に小さく声を掛けた。

 今日は初代初次郎の月忌命日である。

 まだ日も差し切らぬ薄暗い中、神妙な面持ちで手を合わせ頭を下げると、おもむろに仏壇に手を伸ばし、位牌を真っ白な袱紗に包み懐に仕舞って、藤次郎を伴連れに慌てて外へ出る。

 お市を見つけて駆け足で嬉しそうに寄って来る黒丸の吠え掛かりそうな勢いに、お市はしーっと人差し指を当てた。


「黒丸、静かにね。藤次郎行くよ」


 毎月この日には初次郎が好きだった景色のどこかを、藤次郎を共犯に仕立てアオとのんびりとした黒丸をお供に、皆で連れ立って見に出かけるのが常となっている。

 今日は、初次郎が大好きだった山躑躅の花が咲き誇っている丘が目的地だ。



 皆が一緒なら、おじいも寂しくないでしょ。


 本当は自分が寂しいということなど、よく分かっているのだが、言い訳でもしないと、位牌を拝借しているので後ろめたいのである。

 勿論、大女将の照も、二代目初次郎の米之助もお福も、辰吉も、お市が位牌を持ち出していることくらいは百も二百も承知ではあるが、皆敢えて気付かぬふりをしている。

 其の為おつかわし屋では月忌命日は働き者の皆が、急に優しい朝寝坊になる。

 みゃーんと虎猫の山吹が顔を出した。

 かなりの年になるのだが未だに元気なお市より一つ年上の猫である。

 何処に行くのかという表情に、


「おじいに山躑躅を観て貰いに行くんだけど、山吹さんも一緒にどうかしら?」


 と問うてみたが、興味がなさそうに大欠伸をすると、いってらっしゃいと尻尾をたて、そろりと板戸を閉めて奥へと消えた。


「たまには一緒に行けばいいのに」


 その様子を見て呟くお市に、藤次郎は、


「ほら、早く行こうよ。お天道様が登りきる前には戻さないと、婆様に怒られるよ」


 とひそひそと慌ただしく告げた。

 お市はこそこそとせず、堂々とおじいを連れ出したいのだが、今日の日に独り占めも悪いかなという気持ちはやはりある。


「わかってるわよ。じゃあ出立」


 アオは渋々、黒丸は嬉しそうに、お市の側に並んで歩いている。

 藤次郎はその様子を少し離れて見ていて、アオに初次郎が乗っているような錯覚に陥っていた。眼を擦ってみると当然に誰もいない。


「藤次郎っ、早くって言ったのあんたよ。ほら」


 お市に呼ばれて、藤次郎は慌てて駆けだした。


 風薫る時節である。山々は煌めき緑が青々と直に訪れる夏を待っている。

 朝早くまだ肌寒いとはいえ風が気持ちがいい。

 季節を身体中で楽しみながら道を進むと、お地蔵さんが見えて来た。

 何時頃から其処に在るのか、お市も藤次郎も知らないのだが、いつものように、優しいお顔のお地蔵さんに手を合わせてぺこりと頭を下げる。

 今日もよろしくお願いします。御邪魔致します。松井宿のお市と藤次郎です。

 おじい……いえ、初次郎に山躑躅を見てもらいに立ち入りますね。


 お地蔵さんの周りを丁寧に浄めて汚れを払い、綺麗な水を入れた竹筒をお供えして、おじいの位牌にも挨拶してもらって、心も足取りも軽く進んで往く。


 ひひーん。ひひひーんっ。


「……あれ? どうしたのかしら? 」


 山躑躅の咲いている丘まで角を曲がればすぐそこと言う処で、恐怖で嘶く馬の声を耳にした。

 お市も藤次郎もすぐさま顔色を変えるくらい良くない嘶き方だ。


「姉さん、今の…」


 声を落として喋る藤次郎に、お市は無言で頷くとアオに目配せし、黒丸が傍に来るように太腿を叩いた。

 お市は人差し指をツンとした唇の前に突き出すと、藤次郎に潜んで進むように合図する。

 藤次郎も頷きながら、二人は距離を保ちつつ、嘶きのする方へ足を進めた。


「どうっ、どうっ、頼むっ、落ち着いてくれっ」


 宥めようとしている若い男の焦った声がしている。

 近くからは熊笹を獣が踏み分ける、ガサガサという葉擦れの音と合わせて、グルルルルっと低い唸り声が聞こえている。

 山犬達だ。

 鼻をクンクンしている黒丸には警戒の様子は有るものの、危険を感じている雰囲気なぞはまるでない。


「藤次郎、何とかなるとは思うけど、気を付けてね」


「うん。わかった」


 藤次郎は頷くと大岩の陰から飛び出した。

 お市も迷わず後に続く。

 そこには武家の早馬用で体躯も大きい馬が、嘶きと共に棒立ちになり、恐怖のあまり暴れ馬となっている。


 ぐるるるっ。


 殺気を帯びた山犬の唸り声が辺りから次々に沸き起こっている。

 馬は益々恐れ慄き、とうとう、必死にしがみつき立て直そうとしている若い侍を勢いよく振り落とした。このままいけば若い侍を踏みつけ蹄にかけてしまう。


「だめよっ。我慢してっ」


 とお市がぴしゃんというと、馬の眼の色が少しばかり落ち着き、


「ぶるるっ、ぶるっ」


 おつかわし屋の群れ頭でもあるアオが何やら語り掛け、暴れ馬の動きを止めたところに、藤次郎は「よーしよーしっ」とその馬のくつわを取って宥めた。

 お市は駆け寄って馬の顔を抱えると、


「しっ、静かに。いい、落ち着いて、ね。大丈夫だから。アタシが何とかするからね。だから落ち着いて」


と語り掛け、馬は漸く落ち着きを取り戻した。

 黒丸が鼻をひくひくさせるとあたりの木立に向けてワンワンと大きく吠えたてている。


「姉さんっ」

「わかってる。お侍さんをお願い。黒丸、一緒に来て」


 先程までの呑気な様相と違って、黒丸の表情はきりりと引き締まっていた。

 顔をやや下にして見上げる様に辺りを窺いながら、いつでも飛び出せるように、お市の足に沿うようにぴったりと歩いている。

 やや離れた木立の陰陰にきらりと浮かぶ幾つかの眼があった。かなりの数の狼である。獲物は先程の馬と若い侍であろう。

 アオは藤次郎と若い侍の側に仁王立ちして辺りに睨みを利かせている。

 狼ぐらい蹴散らしてやると言わんばかりの鼻息であった。


「灰王、灰王。いるんでしょ。出て来てよ」


 お市は狼の群れを怖れるでもなく、探し呼びかけた。その動きに誘われるかのように、一匹の狼がうおおっと吼えるとお市に襲いかかる。

 身構えるお市を守るべくすぐさま黒丸が敏捷に飛び出し、狼の首に噛みつくと振り回した。互いにぱっと離れると睨み合いながら低く唸る。

 狼相手でも黒丸は引けを取ることは無い。元々勇猛で、熊すらも追いかけて仕留める虎毛の血を色濃く引く頼りになる犬なのだ。

 甲高い遠吠えが一つ響いた。途端に襲いかかって来ていた狼は耳を寝かせると、怯えた表情で背を向け木立の中に消え、代わりに、がさりとわかり易く音を立てて、熊笹の茂みから一際大きく立派な灰色の毛並をした狼が顕れた。お市が灰王と名付けた狼の群れを率いる頭である。

 灰色の巨躯に思慮深そうな目の色をした威風堂々たる狼である。

 そんな狼に黒丸はわんわんと吠えたてると、真っ直ぐに飛び掛かり、嬉しそうに顔を舐めまくった。

 灰王は少しばかり迷惑そうな顔で為すがままに任せていたが、とうとう黒丸の頭を前足で抑え込んでお市を見た。

 お市はそれでも嬉しそうな黒丸を手元に呼び戻して、


「灰王。やっぱり居たわね。どうしたの? 人を襲うなんて」


 と尋ねた。

 わふっと灰王が促すと、悲しい眼の怒った顔をした雌の狼が現れた。

 うるるると甘鳴きで唸る。雌の狼は乳が張っている。


「うん。分かった。藤次郎っ、そのお侍さんどこかに、狼の仔を持っている筈だから、仔をアオの背に載せてこちらへ送って」


 馴染みの群れの相手だというのに、珍しく姉の声が緊迫している。

 そもそもお市が襲われたということは、その怒りが凄まじいという事だ。

 藤次郎は退っ引きならない事態であると直ぐに呑み込んだ。

 先程から若い旅支度の侍は、一声も発しないままこちらを見ているばかりであった。如何やら腰を抜かしているようである。

 その懐から小さい頭が見えているのを見つけた藤次郎は、


「お侍様。すいません。失礼します」


 と声をかけ懐に居る狼の仔二匹をそっと取り出した。


「居たよ。姐さん、今送る」


 と狼の仔を両手に抱えて進もうとしたその時である。

 初めて若い侍は手を伸ばし声を出した。


「あぁっ……その仔達を、その仔達を……連れて行かないで下さい。そのままだと死んでしまう」


 震えながらもしっかりとした声で藤次郎に告げた。



 

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