巻の弐 第一章 粗忽

第1話 お市の働き

 お市は少しふくれていた。

 半分は哀しくもあるのだが、いずれにしても、そこらにある小石を蹴っ飛ばしたくなるくらいの気分ではあった。

 今日は父親に代わり、初めての独りの仕事で、齢も十六を数えようやく一人前になったと、喜び勇んでの初仕事であったのだ。

 いや、正確には門前払いをされたのだから、仕事になる筈であったというのが正しい。

 鵜養の助五郎からの口利きで、今度ご領主に天覧漁を行うに当たって調子の悪い鵜を見て欲しい、と依頼のあった士分の鵜飼の許へ、通行手形を貰ってまでわざわざ遠出して出向いたのに、追い返されてこのざまなのだ。


「どこの馬の骨だかわからない小娘に、武家の敷居は跨がせないって、話も何も聞きやしないって何よっ」


 真っ黒に日焼けして、身形も紺の絣の着物に男帯に股引きという出で立ちではあるのだが、それを差し引いても余りある器量良しで、大きな瞳に輝く明るい表情、ツンとした唇に、鴉の濡羽色の艶やかな黒髪が無造作に茜色の簪で束ねられているにも関わらず、男も女も関係なく見るものの眼を奪う。

 馬子にも衣裳どころか、姫装束にでもなればそれこそ三国一の美女ともてはやされるだろうに、当の本人は色恋事には大きな関心は無く、万が一の為の備えの筈が、好んで男着物を身に纏っているのだ。


 戦国の世が終わり大分経つとはいえ、まだまだ危ない女の一人旅ではあるのだが、足元にはいざとなれば鬼すら噛み裂くのではないかと思われる、甲斐犬の黒丸に、おつかわし屋の群れ頭で、山犬の群れなど蹴散らしてしまうほどの気性も荒いが頭もすこぶる賢い、木曽馬のアオが伴連れでいる。

 この犬とこの馬は、お市の良き相棒であり、下手な人間よりも頼りがいのある用心棒でもあるのだ。


 しかし、今のプンプンしているお市に対し、賢い馬のアオは素知らぬ顔して相手すらせず、足元の黒丸は、噛み心地の良い桜の小枝を咥えてご機嫌で歩いており、慰めにはなってはおらず、それはそれで、少しばかり心寂しいお市である。


 そんな処に、


「おーい。お市ちゃん。待ってくれ」


 と呼ばれて慌てて表情を立て直し振り返ると、息せき切って駆け寄って来る顔見知りの小作人吾作がいた。


「すまねぇ、うちの牛のタロが急に色めき立って鼻息も荒くてさ。云う事もきかねえし、このままじゃあ怪我人が出ちまう。悪いけど一緒に来てくれねえか」


 と困り顔である。


「うん、どうせ用事も無いし、任せて下さいな。只今」


 アオが横目で安請負していいのかと言わんばかりにお市を見るが、


「気分直しも必要でしょ。いいから行くわよ」


 とアオの尻を文字通り叩きつつ向かった。

 おつかわし屋のある松井宿傍の山の裾野に広がる豊かな農村である。

 畑の脇道をほんの少し奥に入った荒れ地を牛を使って開墾していた。

 鋤を引いている牛は鼻息も荒く、気が立って何やら声を荒げ乍ら前足で土を掻いている。

 タロは他の牛に比べて大柄で力も強く、暴れだしたら手が付けられない。

 畑仕事の男衆が宥めて抑えようと数人で何とか縄で歯を食いしばって引っ張ってはいるのだが、皆汗だくで苦しそうだ。あの様子では余りもたないだろうし、怪我人も出そうな状況である。


 まずは気を静めないと……。


「アオ、お願い」

「ぶるるっ」


 面倒臭そうに、アオが小さく嘶くと、駆け寄って牛のタロの注意を惹いた。

 タロの気勢がアオに注がれ少しばかり削がれる。

 その時を見計らって、


「タロ。暴れちゃあ駄目っ。あんた強いんだから、周りの人たちが怪我しちゃうよ。そんな牛じゃあないでしょ」


 お市の良く通る子気味良い声が辺りに響いた。

 黒丸は嬉しそうに木の枝を咥えたまま、タロに近付き自慢げに桜の枝を見せびらかしている。

 んっもー、とタロが踏ん張るのをやめて、前足を掻きながら鳴いた。

 お市は頷き、


「もう大丈夫だから。ねぇタロ。ほうら、もう大丈夫。落ち着いて、ね」


 と、それは優しい声をかけた。

 タロの眼の色も柔らかく優しくなり鼻息も落ち着いている。


「縄はもう緩めて大丈夫です。少し傍から離れて下さいな」


 危ない危なくないと、いろいろ言っている周りにいた男衆を、無理矢理下げさせると、


「タロ、どうしたの? 貴方らしくないじゃない」


 と顔を撫でながら、真顔で尋ねた。

 もーっ、もっー。タロもしっかりと応える。

 タロの鳴き声にお市は頷きながら、


「この鳴き方の感じは、何処か怪我しているみたいね」


 と周りの男衆にわざわざ聞こえるように大きな声で喧伝した。

 動物と話せる不思議を皆に知られてはならないと、いつも心を砕いて砕いて粉にしている弟の藤次郎が聞いたなら、渋面を浮かべて、下手な芝居をと嘆くところだろうが、当の本人は上手くやっているつもりだし、周りの男衆もそこまで気を配れるほどの余裕もなく、事なきを得てはいる。

 お市はタロを見据えて、


「怪我したところ出して」


 と膝をつくと、それを待っていたかのようにタロが前足を差し出した。

 よくよく見ると、右の足の蹄の上あたりに小さいが深い傷があり、蹄の隙間の部分には、鋭い岩の欠片が挟まっている。


「痛かったわね。もう少しの辛抱だからね」


 竹筒の水で傷口を洗い流すと、持っていた布切れで汚れをふき取り、蹄の岩の欠片を丁寧にこそぎ落とし、アオがいつの間にやら用意よく咥えて来たセリを手で磨り潰すと、傷口に揉み込んで石蕗の葉で覆って藁で解けない様に縛った。

 黒丸はその間、後ろ足で立つとタロの顔を前足で抑えて、ぺろぺろと楽し気に舐め回し、タロはタロでどことなく嬉しそうである。


「これで、ヨシッ。もう大丈夫です。右足を石かなんかで怪我していたので、タロの足元にも気を付けながら畑仕事をお願いしますね」


 そう明るく華やいだ笑顔を浮かべた。

 畑仕事の男衆は、自分たちがひぃひぃ言っていた牛をあっと言う間に手なずけ、怪我を見抜いて、これまた手際よく傷の手当まで行った器量良しの娘に魅入っており、礼すら忘れて鼻の下を皆伸ばし切っている。


「こらっ、あんた達仕事だろっ」


 その様子を見ていた今度は鼻息荒い女房連中に追いやられ、男衆は渋々仕事に戻って行った。

 顔見知りの女房が、お市の肩を叩く。


「流石、おつかわし屋の看板娘。凄いねぇ。有難うよ。ホント助かった。でさ、あれ」


 女房の指し示す方向に、籠と一杯の野菜を積まれて迷惑顔のアオがいた。


「少ないけど、持って行って。米さんやお福さん、皆にもよろしくって伝えて頂戴。ホントに有難う。うちの宿六に代わってこの通り」


「ちょっと、辞めて下さいな。ついでだもの、辞めて下さい」


 とお市は、頭を下げる女房に声をかけ、おでことおでこがぶつかりそうになる位近く女房と目が合って、声を出し笑い合った。

 明るい笑い声が良く似合う晴れた日である。空も高い。

 お市はプンすかと怒っていたことをすっかり忘れて、足を進めた。

 向かう先は当然、我が家であるおつかわし屋である。



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