第42話 おつかわし屋の笑顔の華
「何だってえっ」
大声と共に、ガランガランと大きな音がした。
表に涼みがてら、お市と辰吉が木陰に並んで座ってしゃべっていたところで、辰吉が実に珍しく大声を上げて、ようやく治して磨き上げたばかりの龍の容の細工も見事な鋼の大煙管を取り落としたのだ。
「じゃあ、あの鴉の声は、お嬢の仕込みじゃあ無かったのか」
「急拵えで、あそこまで手の込んだ事は出来ないもの」
辰吉は天を仰いだ。
「お豊姐さんを止めたのは、安兵衛兄いだったのか」
「まだ、誰にも言っていないの。どうしたものかと思って」
「ああ、お嬢。済まねえ。気を遣わせてしまって、申し訳ない。有難うな」
「辰吉さん。大丈夫でしょうか? お市、辰吉さんにご迷惑をお掛けしては駄目ですよ? わかっていますよね」
暖簾の向こうから、お福が顔を覗かせた。
「若女将、いやなんでもありません。ついぞうっかりしただけで、なあ、お嬢」
「う、うん。その通りよ。おっ母さん」
「ふうん。まあいいわ。それより、お花ちゃんは、まだ戻っていないの」
「はい。お花はまだ畑から、戻っていませんや」
「藤次郎が一緒だから、早く終わると思ったのだけれど、やっぱり、多く頼み過ぎたかしら」
お市はやっかみを込めた笑いを浮かべて、
「一緒だから遅くなるんじゃあないかしら」
と呟いた。
「えっ、どういう事かしら」
慌てて辰吉が遮った。
「ああ、いや、何でも在りません。それより若女将、大女将が先ほどお尋ねでした」
「あら、辰吉さん有難うございます。そうそう、お市。ほら、今度のご褒美に代官様から頂戴した砂糖菓子があるわよ」
お福から差し出された、お盆の上に飾られた、鳥や花の形をした上等な砂糖菓子があった。それは見事な細工であり、初次郎の時に貰った鯛のお菓子の時と同じくらい、お市は目を瞠った。
「うわあ、綺麗」
「酒井田様が笑っていたわ。鼈甲の櫛でも絹織物でも、褒美は望みのままだっていうのに、欲気より食い気かって」
今日、大椛は大忙しの日であった。
小春が酒井田の養女となり、そのお披露目の宴席を行うので、準備に追われている。
養女といっても形ばかりのものではあるのだが、お嫁入りの為にやらねばならない事なのだそうだ。
お嫁入りの先は当然の如く清七である。
その準備で皆バタバタしているのだ。
お市と辰吉はあの後、怪我や容体が芳しくなく、しばらく臥せっていたので、もう治ったといってもじっとしていろと皆に言われ、手持ち無沙汰であった。
お市は、清七に小春が嫁ぐことが正式に決まり、意気消沈している処に大事なお花はあの一件以来、藤次郎と共にいることが多くなり、余計に寂しい。
つまりは、大事なお花ちゃんを藤次郎に取られたのである。
お市は深いため息をついて、鶴の形をした砂糖菓子を一つ抓むと口に放り込んだ。
甘い香りが鼻をくすぐるが、一瞬不思議顔になる。
「あれ、ただ甘いだけで、そんなに美味しくない」
「どれどれ、一つご相伴を」
抓む辰吉は、口に入れるや、
「こりゃあ、上等な白砂糖だ。十分にうまいと思うがな」
と含みのある笑顔で笑った。
「ねえ、辰じい。あたしに春はくるのかしら」
「お嬢は悪い癖さえ治れば、文句なしの三国一の花嫁になるさ」
「あたしの悪い癖って何」
辰吉は笑いながら、馬頭観音を祀ってある神棚の横にでかでかと張り出している絵草紙を指さした。
〝天網恢恢疎にして漏らさず。山神様改め山姫様、ご神威を発せられ山賊どもを退治なされる。
うら若き美しき乙女姿の山神様に、恐れと親しみを持って、山姫様とのたまう者数多あり。これぞ誠に言い得て妙と思はれ、近くにありしもの、百姓町人侍皆、山姫様と崇め奉る。その御姿は、ある時は兎、ある時は女鹿、ある時は山烏と変幻自在なれば……〟
「あたし、山姫様じゃないもの」
「元気過ぎるのは、悪いことではないさ。ただお節介の虫がちょいとな」
「辰じい。過ぎるって何、過ぎるって」
辰吉がニヤニヤ笑い、それにつられて足元の黒丸が、「わんわん」と嬉し気に吠えたてる。
お市はその様子に目を細めて、黒丸をわしわしと撫でつけた。
「アオッ、痛えっ、よせっ、こらっ」
「アオ。伊平相手だ。好きにやっちまえ」
外では、軟膏が痒くて仕方がないアオが、不機嫌な顔で、古なじみの伊平と六郎に噛みついていた。
近々、草津へ、お豊さんへの挨拶がてら、湯治にでも連れて行こう。
お市はそう思った。
「恐れ入るが、どなたかご在宅か」
大椛の裏側、おつかわし屋の表で誰かが声を掛けている。
「おや、お客さんだ」
「あたしに任せて、辰じいはゆっくりね」
お市がぱっと駆け出した。
若いお侍が訪ねて来ている。
お市は、それは朗らかな声で、
「いらしゃいませ、お武家様。おつかわし屋へようこそ」
と誰もがつられて笑顔になるような、満面の笑顔の華を咲かせながら、明るく声を掛けた。
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