第40話 山の怪と山の生命

「アンタ何かに負けるもんか!」


 お市の強く厳しく発せられたその言葉に弾け、薄衣がはがれたかのように源太の躰を中心に黒い煙のような妙なものがたなびいているのが見え、その黒い煙が痩せさらばえた山犬達にまで纏わりついている。


 ソレは、かつて繰り返し繰り返し、祖父の初次郎から気をつけろと言われ続けていたもの。

 山の怪だ。

 日の光が届かない山の陰で、澱のようにたまったどす黒い悪いもの。命あるものの正気を奪い、ついには命まで奪う。

 山の怪に侵されたモノは、普通では無くなってしまう。

 喰らう為ではなく、ただ生命を憎むがあまりに、自身の肉が裂け骨が砕け心の臓が張り裂け自らが死んでしまおうが、獲物の生命が失せるまで襲い続ける生への冒涜者なのだ。

 タガが外れたモノ共は、生きる者には到底出せない、尋常ならざる力を己が肉体の死が訪れる迄、無情に、酷薄に振るい続ける。


 それはそれは、怖いモンだ。

 だからな。出逢っちゃあなんねえモンなんだよ。

 でもな、お市。

 うっかり、逢っちまって、逃げも隠れも出来ねえ、どうしようも無い時にゃあ、山の皆衆の力を借りろ。

 必ず、助けてくれる。いいな。

 

 お市は初次郎の言葉を思い出しつつ、源太の身に起こっている怪を見極めようとした。迂闊に森の皆に頼んで、命を奪われたり、妖の如くになり果てた山犬達のようにさせるわけには行かない。

 そもそもが、その山犬達ですら助けたいと当然の如く願っている。

 その山の怪に侵された幽鬼のような山犬達は、全てを噛み裂かんと強烈な殺気を放っている黒丸と、王者の風格で堂々と立ちはだかる灰王とその群れによって、近寄ってこれずにいる。

 ならば、相手は源太だけだ。


「シャァアアァッ」


 山吹はそれを知ってか知らずか、先ほどから、源太が振り回す凶刃を右に左に、まるで次にどこに刃が来るのか分かっているかのように、実に危なげなく、ひらりひらりとかわしつつ、源太とその黒いモノに爪を立てて、切り裂いていた。

 いつもの日向ぼっこが大好きな、のんびりしている様相とは正反対の、大いに怖い雰囲気を身体中から立ち上らせている。


 源太は、血を躰の彼方此方から流しつつも、


「うおぉおぉおぉおおっ」 


 と大きな叫びをあげた。 


「キシャアアッアア」


 山吹は猛った声で威嚇すると、大きく後ろに飛びよけた。何かを感じ取ったようである。

 源太の声に、応える様に山が少し震えると、あちらこちらから、蝮や山ガカシなどの毒蛇に、大百足やヤスデなどの毒虫が、次々と湧いて現れた。

 あらわれたものは、全てお市へと向かっている。


「何よっ。させないっ」


 お市は、そんな異様な光景をものともせず、柏手を打つと、手を合わせていった。


「山の神様。松井宿のお市をお許しください。近在の衆の力を頼ります。おじい……見ていてね」


 大きく息を吸い込むと、凛とした力のある透き通った声で、言った。


「山のみんな、お願い。助けてっ、力を貸してっ」


 お市の声に、蛇や毒虫の進軍はピタリと止まったが、それ以外は何も起きない。

 源太は、口の端から泡をまき散らしながら、


「化物娘がぁあっ。妖の力が消えたようだな。おめぇはこの手で仕留めてやるぅ」


 刀を片手に、お市に走り寄ろうとし、その動きに蛇も毒虫を同調する。

 すると、直ぐその後に、轟々と山が震えた。

 ぴちちちちっ。るーるり、るるるり。ひーよ、ひひひーよ。沢山の小鳥が空から舞い降り、毒虫や沢山の蛇を啄んで蹴散らし、源太もその様子を恐れ動き止めた。


 お市は、源太に操られている虫や蛇たちの、山の怪に抗おうとしている生命の揺れを感じ取り、


「そんな嫌なものに負けないでっ。飲み込まれるなっ」


 そう、大きい声を上げた。

 その声に鳥たちが従うようにそれぞれが一声大きく鳴き声をあげると、強い風が湧き起り、毒虫や蛇たちは、三々五々散ってその姿を消していく。


「てめぇっ、何しやがるっ」


 ギラギラとした殺意に憎しみと込めた刃で斬りつけようと、源太はお市に駆け寄ろうとして、ピタリと動きを止めた。

 驚きの表情で、目を見開いたまま、お市の後ろに魅入っている。

 お市のその背の樹々に、鳥という鳥が、枝葉のように鈴なりにとまり、木々の間からは、熊に鹿に狸に狐、イタチに獺、山に棲むもの達が挙って集まっていたのだ。

 いや、お市の背中ばかりではない。

 四方をぐるりと鳥獣が、すっかり取り囲んでいた。

 声を上げず、動きもせず、じっとしたままである。

 しかも、その視線は全て、源太を捉えている。

 先ほどまで、争っていたはずの、灰王と山犬の群れですら、同じく源太を取り囲むように視線を注いでいた。


「ワーオ、ワーオっ」


 燃えるような目で猫の山吹が威嚇し、


「ぐるるるるっ」


 殺気を迸らせながら、怒りの目線で黒丸が源太へ低く唸り、


「うををおおぉおん」


 堂々した姿で灰王が吠えかける。

 燃え上がりそうな気勢を立てて、源太を見据えている。

 周りにはもう、源太に味方する生き物は何処にもいない。 


「ば、ば、ば、化物っ」


 源太は、憑き物が落ちた情けない表情を浮かべると、その場に満ちた荘厳な気配に、腰を抜かしてへたり込んだ。

 先ほどまで渦巻いていた黒いモノは最早そこにはなく、源太は弱弱しい只の男であった。


「あなたはやり過ぎた。多くの人たちを、私の大事な人たちを苦しめ、傷つけ、手に掛けた。悲しまなくてもいいはずの、善良な人たちを絶望の淵に追い込んだ」


 お市が指さしながら、源太へ一歩踏み出す。

 鳥獣たちも同じく一歩、源太へ近寄る。


「お豊さんが、泣いている。安兵衛さんに、もう会えないと泣いている。ご亭主や親兄弟をなくした人や、目が見えなくなった人も、躰が動かなくなって途方に暮れている人もいる」


 お市は怒っていた。それは烈しく。

 お市は悲しんでいた。息が詰まる程に。


「あなたはーどうしてこんなに苦しめるのっ」


 お市へ、倒れているアオが小さく嘶いた。

 何度も何度も必死に諫めようと嘶いたのだが、その声は小さすぎてお市の耳に届かない。

 山吹に黒丸に目をやったが、山吹も黒丸もお市の発する気に飲み込まれ、怒りの表情を浮かべている。

 アオは嘶いた。もがいた。立ち上がらなければ、守らなければ。

 それが初次郎との約束である。


「あなたはー」


 お市が更に足を踏み出そうとした時、


「姉さんッ、姉さんッ」

「お嬢っ。落ち着けっ」


 藤次郎と辰吉が飛び込んでくるのが見え、アオは「ブルルッ」と小さく嘶くと、がくりと首をうなだれ、そっと目を閉じた。

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