第39話 全てを抱えて、ただ、前へ

「次こそは、た、退治してやるぅうっ。化物娘ぇ」

 

源太は大きな声で叫ぶと、次の矢をつがえて構えた。

 大猪の兄弟はその様子にギラリと目を光らせ、猛烈な気概を躰に毛並みに纏い際立たせながら、「ぶいっ」と一声鋭く鳴くと、源太に突進を開始した。

 力強い四肢が土を蹴り上げ、その勢いたるや、触れるもの全てをなぎ倒すのではないかと思われるほどであった。それが二頭である。


「猪なんかにやられるかよっ」


 源太は、跳ね飛ばされるかと思われた矢先、実に素早く近くの大岩に駆け上がると、避けるだけではなく、直線的ではあるが突進する猪相手に矢を射掛け、見事命中させていた。

 大猪の兄弟も流石はこのあたりの山の主である。

 背に刺さった矢など欠片ほども気にも止めず、源太をつけ狙う。


 お市は目を瞠った。

 源太のその動きは、辰吉と同じように、余りにも素早く、余りにも的確であった。前とはまるで人が違う。

 それを察知したのか、ニヤリと源太が笑い、その口元から、一瞬、何やら黒い煙のようなものが立ち上ったように見えた。

 源太は、お市を睨みつけながら叫んだ。


「化物娘っ。ようく聞けっ。お前を退治する力を俺は、授かったんだああ。お前だけじゃあ無ぇんだっ。てめぇらっ、やれっぇぇ」


 音もなく、幽鬼じみた顔つきの山犬達が、唸り声すら上げず、いきなり、猪たちに襲いかかった。

 獣たちに察知されなかった源太と、源太の声で襲い掛かる、闇から湧いたような餓えた山犬達。

 まるで物の怪である。

 だが、お市はその幽鬼めいた山犬達を怖いどころか、哀しみと痛みをもって見つめていた。


「あの子達に何をしたのっ!」


 意志の光をその目に宿し、源太を睨みつける。


「ま、又その目かぁっ。だがなぁ、も、もう怖くねえ」


 怯む源太に、追い打ちを掛けようと足を踏み出した。

 と、山犬達と丁々発止を繰り広げていた猪の一頭がが悲鳴をあげ、どうっと倒れた。矢を射られた方である。

 二頭の連携が乱れた途端、山犬達は猪たちを引き倒し、噛み裂いて、血に狂い喰らい始めた。


「化物娘に操られる獣共も、普通に毒で殺せるなぁ」


「茶絞り、豆柄っ」


 お市が悲鳴を上げた。

 その声に庇い建てようと動いたアオは、声を立てずに、地響きが鳴るほどに勢いよく地に倒れた。


「アオッ」


 お市の眼が気持ちがアオに全て向いた刹那の隙を、源太はドンピシャにとらえ、ニヤリとうすら笑いを殺気と共に浮かべた。


「へっ、化物女、死ねや」


 毒矢をつがえて構えるその狙いは、ピタリとお市の心の臓辺りに付けられている。

 弓が引き絞られ、放たれようとしたその時である。


「シャアアアッ」


 鋭い威嚇の声とがしたかと思えば、


「ぐぎゃっ」


 源太が変な叫び声をあげ、弓を取り落とし片眼を抑えた。抑えたところからは、血がにじんでいる。


「くそがあ、くそがあ、痛ぇええぇ」


 喚きながら、すぐさま、腰に差していた刀を振り回すが、黄色い影はひらりひらりと躱すと、あっという間にお市の足元へとやってきた。


「にゃんっ」


 待たせたわ、と言わんばかりに、尻尾をゆらゆらと揺らしながら、毛並みのいいトラ猫が、お市を見上げていた。

「山吹さん……やっぱりそうなのね。山吹さん。いつも危ない時に……ありがとう」


 お市の声に山吹は振り返ると、


「わーおわわーお」


 と油断するなと言わんばかりに、怒りの声と共に源太に睨んだ。

 その目線の先には、燃える様な眼をした山犬達が、口から血を滴らせながら、こちらを振り返っている。

 片目を抑えながら源太は喚き散らした。


「糞があぁあ、痛えぇ、痛えぇえ。テメエらっ、化け物娘を食い殺しちまえっ」


 幽鬼の如き山犬達は、その声に従い、あばらの浮いた躰をゆっくりと向けながら、何の声も発さずに、お市へと静かに殺気を放つ。

 最早、魔物である。

 だが、お市は、はたと、闇かと見紛う山犬達を見つめて、視線を外さない。


「そう……、辛いのね、貴方達も。だからといって、そんな薄暗いものに呑まれては駄目。牙を噛み鳴らして踏ん張んなさい」


 お市の朗とした声が、山犬達に突き刺さり、一瞬怯んで、普通の顔に戻った。

 だが、源太がどんっと大きな音を立ててつつ、地を踏みつけて、


「なにやってやがる。喰らえっ、殺せ。存分に憂さをはらせぇええっ」


 と叫ぶと、山犬達は再び、幽鬼のような顔つきに戻り、静かな殺気を放ち、お市達へと殺到する。


「おおーんっ」


 狼の遠吠えが一つ力強く奔り、山犬達は動きを止めた。

 おおーんっ、おおーんっ。

 狼達の遠吠えが重なり覆い被さる。

 山犬はその声に気を取られて足を止めており、その間を黒い旋風が走り抜けた。

 旋風は、お市に向かう山犬達を次々に薙ぎ払うと、山犬達の前に立ちはだかった。


「ぐるるるるっ」


 鬼をも噛み殺さんばかりの勢いの黒丸であった。

 その気勢は激しく、幽鬼のような山犬達を尻込みさせるほどである。

 それだけではない。

 灰王率いる狼の一団が、低い唸り声をあげながら、輪のように山犬達を取り囲み、睨み合いをしつつ動きを封じた。


「黒っ、灰王っ、しばらくお願いっ」


 お市はそう叫ぶと、アオの矢を引き抜き、傷口を竹筒の水で洗い流し、懐から四角く切った炭の塊と、どくだみ草を口に放り込み、咀嚼すると、躊躇わず傷口から毒を吸い出す。

 すぐそばに湧き出ている泥水で、口を漱ぎ、何度か血を吸い出した。

 アオはぶるるっと小さく嘶いて、お市を鼻先で小突いた。


 やめろ。先にすることがあるだろう。あれを放っておいてはいけない。


 お市の胸にアオの気持ちが流れ込む。

 下唇をぎゅっと噛んで、覚悟を決めた。

「アオ、アオ、御免、御免なさい。あたし――」


 俯くお市の頬に一条二条と光るものを、袖口でぐいと力任せに男の子の様に拭き取り、すっくと立ちあがって、源太を真っ直ぐに睨みつけた。

 その瞳に在るものは、哀しみであり、怒りであり、恐怖であり、憎しみであり、命への愛しさであり、万感の想いが意志と共に渦巻いて光となっている。

 お市はありのままの自分から目を背けず、自分の想いを受け止めて、


(皆の幸せを乱させはしない。悲しみはもう沢山)


 と強い祈りに変えた。


「もう誰も、悲しませたくない。だから前に進むのっ。意気地なしだからこそ前へ」


 誰に言い聞かせるでもない、言葉が口をついた。

 もう、震えていない。

 涙も止まっていた。

 

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