第十章 帰着
第38話 狭間で揺れ動く怖いモノ
教え鳥ともいわれるイシタタキが、ぴょこぴょこと飛んでは歩いて、アオに跨るお市へ道案内をしていた。
その後ろに木曽馬のアオを一回りだけ小さくしたような、この辺りの山の主の大猪の兄弟が伴連れで控えている。
人里離れた奥深い山に分け入るとき、頼まれなくても用心棒を買って出る、力強くて鼻息の荒い、心優しき大猪達である。
お市は憂いていた。
皆に不幸をもたらすきっかけとなった、あの源太という小悪党の事を想うだけで、胸の奥がざわつく。
どうしてもを見つけ出さなければ、何としても見つけ出さなければ。
死の匂いを撒き散らす怖い人間の居場所を誰か教えて……。
お市の想いが風に乗って山々に響き渡り、真っ先に応えたのがイシタタキであった。河原に多く在って、白い躰に黒の尾羽を持つこの小鳥は、かつて神にすら、道を教えたと謂れのある鳥である。
イシタタキはこっちだと、山の奥の奥へ誘っていく。
お市は、今までに感じたことのない、胸の奥を何かが搔き毟る嫌な感じが止まらず、その胸騒ぎが急き立てる。
時が無い―― と。
想えば、全ての不幸はあの板橋宿のあの男からだ。
放っておけば、また誰かの血が流れ、誰かが涙で心を曇らせてしまうかもしれない。
ならば―― 自分のこの手で、大切な誰かが涙で心を曇らせる前に、何とかして見せる。
今、しっかりとしんがりの荷駄を下ろして荷解きができるのは、少しばかりの不思議がある自分しかいない。
強い確信と動かない覚悟がお市を前へ前へ駆り立てる。
(皆……ゴメン。心配ばかりさせて、約束破ってばっかりで。藤次郎、お花ちゃんをお願いね。辰じい、後はお願いします。おっ母さん、おっ父さん、御婆様、少しでも障りは……何としても……取り除いて見せる)
随分と意気込んでいる割には、肩の力も抜け怖いけど怖くはない。
そんな不思議な面持ちだった。
おじいの夢を見たからだろうか。
甘やかな藤の花の匂いが見守るように漂っている。
赤ん坊の頃から、おじいに、御婆様に、おっ父さんに、おっ母さんに、背負われて、毎日のように往き来した馴染みの山々であり、危ない思いも助けてもらったことも幾度となくしてきた、自分の分身のような場所なのだ。
そんな、馴染み親しんだ山の気が千々に乱れて、良くないものに震えている。
正邪の分別なく、ただ、正と死を分かつだけの処に、人の欲が、憎悪が恐怖が良くない何かと混ざり合い、何かを織りなしている。
欲望のまま生命を蔑ろにする人が、山の息が溢れ始めている山神様の領域へ、足を踏み入れ、その結果良くないことが起きかけているのだ。
かさり、と近くの木の枝から、葉擦れの音がしたかと思えば、美しい虎のような模様をしたミミズクが、「ほぅほぅ」と声を掛け、近くの茂みからは番の狸が心配そうにお市を見上げている。
「皆、ありがとうね」
まだ、躰の力は取り戻せてはいない。
しかし、この山ならば、百万の味方で溢れている。
畏れることなど何もないのだ。
普段なら道中の邪魔だとばかりに蹄を掻いて、鳥獣たちをどこぞへ追いやろうとするアオが、わざわざ立ち止まり、小さく嘶くとお市へ促した。
「……そうね。ありがとう、アオ。そうする」
お市はアオから降りると近くの葛の葉を二枚手折り、木の枝でこれから向かおうとしている山の奥の奥、緑崇の神域として絶境とされている場所、山神様の森へ向かっている事を刻んで記した。
そうして、トラミミズクと狸の片割れを差し招いて、認めた葛の葉をミミズクは足に、狸には首元に結わえると、ミミズクは北東に狸には南西の里の方角へそれぞれ向かってもらう事にした。
「虎前も黒足袋も、藤次郎と辰じいは知っているでしょ? どちらかを見かけたら渡してね。明日の朝まで探して、駄目だったらそのままおつかわし屋までお願い」
トラミミズクも番の狸も、まかしておけと表情で応えると、それぞれ大空と草叢へその姿を消した。
「ぴぃぴぃ」
さあ行くぞと、お市の肩や頭に、イシタタキが止まり木の様に羽を休めつつ、行く先を告げている。
アオの頭にもとまろうとするのだが、その都度に、アオは嫌そうに、耳を動かし、頭を振って追いやっている。
「少しくらい乗せてあげたらどう」
お市がそう声を掛けても、返事もせず、只々追いやるだけであり、相も変わらず偏屈で頑固な老馬ぶりを、遺憾無く発揮していた。
いつもと変わらないアオに、お市は安堵の笑みをこぼしていた。
お市は漸く動く様になった体で、源太という危険極まりない、凶悪な男と対峙しようとしているのだ。
怖れや不安が無いわけでは無い。
助けてくれた人を刺し殺し、世話になっていた恩人の井戸に毒を投げ込み、多くの人を手に掛けた男。これ以上哀しみを増やさない為にも、このままにしてはおけない。
そう思いながら、道なきところを分け入った先、不意に開けた場所に出ると、道案内をしていたイシタタキが、気を付けてと一声鳴いて、飛び立っていった。
お市はイシタタキを見送ることを忘れてしまうほどに、眼前に広がるその場の美しさに心を奪われていた。
灌木の間から射す、木漏れ日が真っ直ぐの光の線となって、何れ大木に育つであろう若木を照らし出している。
直ぐ脇には、数百年は悠に超えて或は千年も齢を重ねているであろう巨木が、何本も、しっかりと根付いており、そのまた近くに、湧水の澄んだ水が、優しく辺り一面に煌めきを湛えている。
禁忌の聖域。山神様の緑崇の神域だ。
「こんなに……こんなに綺麗だなんて知らなかった」
夏であるにも関わらず、空気はひんやりと心地よく、とても澄んでいて気持ちがいい。
陽の光が陰影をはっきりと映し、樹々の息吹が色濃く、生命を讃えていた。
嗚呼、此処は命があるべくしてある、このお山のとても大事なところだ。
体の隅々にまで、生命への活力が染み渡り、息を吸うだけで清々しい。静謐の中に在る風の音、命に溢れた杜の優しい土の匂い、明るくそして仄かに暗く、光と影に煌めく水面。
目を耳を鼻を肌を、命の煌めきが優しく鮮やかに、包み込む。
「御山の命が溢れている。素敵」
じっと見とれているお市に、突如アオが、「ヒヒーン」と高く嘶き、お市を頭で突き飛ばすと同時に、ひゅんっ、と空気を切り裂く音と共に、矢が深々とアオの首筋に突き刺さる。
「えっ、何」
一瞬戸惑うお市を庇い、矢などものともせず、軽く嘶くアオは、鼻先から炎を出すのではないかというような様相で、木陰を睨みつけた。
「化物娘がっ。よけやがったかあ」
その木陰から出てきたのは、ギラギラとした殺意をその両眼にあふれさせた源太であった。
まるで、人が違うかのような、見るものを怯えさせる深淵の裂け目のような、徒ならぬ雰囲気をその身に帯びている。
お市は直感していた。
あれは、宜しくない。山に有る、良くない何かに取り込まれている。
怖気と強い緊張感と同時に、やり遂げるという強い思いが身体中を駆け巡って、ぶるりと躰を震わせながら、大きな瞳で真っ直ぐに睨みつけた。
もう負けたりはしない。
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