第34話 藤次郎と初次郎、そしてお市

 街道を一陣の風と化し、全力で駆け抜けていく一騎の騎馬があった。

 藤次郎である。

 草津から松井宿までの道筋は山道で,しかも、そこそこの距離がある。

 馬の足を使っても、直ぐにという訳には行かない。

 

 早く、速く。藤次郎は焦っていた。

 胃の腑の奥がギュッとなるような、嫌な予感が全くと言っていい程拭えない。

 いつの間にやら見えなくなった黒丸が、心配であったが、お市の元へ戻ったのだろうと無理矢理得心し、走る馬足を緩めない。


 道中、道々の侍や役人たちなどに止められないように、代官所御用の提灯を掲げ、急使を装い疾走していた。

 ばれたら無論ただでは済まないどころか、命すら危うい。

 しかし、藤次郎は何ものを引き換えにしてでも、護り抜きたい、護らねばならない大切な人々の為に強く手綱を握っていた。

 懐で揺れている簪の、頼りない、けれどもとても重い、託された想いをひしと感じながら手綱を握って走り続けていた。

 馬が口から泡を吹き始めているのを見て、


(ごめん。許してくれ……もう少し、もう少しだけ)


 と心の中で手を合わせながらも、速度は緩めることが出来なかった。

 口の中がカラカラで、その掌がじっとりと汗ばんでいるのは、陽気のせいだけでは無い。

 夏の空の割には、雲もない晴れ間が続いている。夜道も月明かりを頼りに、休まず走り続けた。

 陽が昇って朝を迎えても手綱を一切緩める事無く走り続けて、ようやく見知った山に辿り着いた。


(あともう少し、すぐそこだ)


 焦りと、見知った山に着いた事による油断が、普段なら見落とす事なぞ有得ない、馬の予兆を見逃していた。

 乗っていた馬が、ヒーンッと鳴くと、どうっと派手に倒れこむ。


 その拍子に、藤次郎は街道に投げ出され、あちらこちら激しくぶつけながらも、どうにかこうにか受け身を取り、大事は避けたのだが、強かにぶつけて腫れあがった処もあれば、血が流れているところもある。

 首を二、三度、横に振ると頭から流れ出る血を拭い、怪我の程度を確認した。

 傷は浅い。

 腫れあがっている足首を、激しく痛むのも構わず、ぐいっと力任せに握る。


「ぐっ」


 泥で汚れ、血にまみれた端正な顔が苦痛に歪む。

 まずは握った右手の中指が激しく痛んだ。おかしな方向に歪んでいる。ぽっきりと折れているようだ。

 節々は激しく痛み、そこら中打ち身でじんじんとしてはいるが、腫れている足首も含め、骨に異常はない。

 であれば、何とかやりようはある。


 無事であった懐の簪にそっと触れると、怪我人とは思えぬ素早さで起き上がり、ここまで運んでくれた馬の心配をした。

 泡を吹いている馬の足回りを看て取ると、


「大丈夫だ。足は折れていない。流石は木曽馬だね。無理をさせて御免」


 と頸をさすりながら、頭を下げ、竹筒のなけなしの水を与えた。

 近くに、腫れを引かせ、血止めにもなる口なしの花か何か無いかと探して、見当たるものはどくだみ草によもぎくらいである。

 ここまで来るのに何の準備もしていない、準備を怠っていた自分を藤次郎は毒づいた。

 

 利発者を装っているくせに、このざまは何だっ。

 姉さんがお花ちゃんがどうなっているのかも分からないのに、一刻も早く辿り着き、皆に危険を知らせなければならないんだっ。

 でもどうすれば……いいんだ?

 出来ることを、出来るだけやり切れっ。己が身一つでも。


「心無しに今なってどうするんだ? お前は馬鹿野郎だっ」


 藤次郎は大声で自分に喝を入れると、馬が食べられてかつ滋養となりそうな、食草を掻き集めて、馬のそばに置いた。


「御免な、先に行く。見捨ててしまうことを許してくれ」


 程よく杖となりそうな枝を見つけて、足を引き摺り進もうとしたその時である。

 木々の合間に山犬の姿が見えた。

 一頭、二頭ではない、結構な数である。

 お市の居ないこの状況で、一番出くわしてはいけない獣であった。


 おおーんっ。

 をををおーんっ。

 山犬達の声が木霊する。


 どうやらかなり腹を空かせている。苛立ちが伝わって来る。

 狩りをしながら山々を渡り歩く。

 そんな群れに、運悪く出くわしてしまったようだ。

 藤次郎は、歯を食いしばって、杖を構えた。

 得意の飛礫も、指が折れていては使い物にならないし、打ち身甚だしく、節々が痛み、どこまで凌げるか分らない。

 しかし、木陰で見え隠れしている山犬の動きに、はしっこく目をやり、活路を見つけ出すべく全身を研ぎ澄ましている。

 懐にある簪の重さを感じつつ、強く心から思った。

 自分も馬も、諦めはしない。何が何でも負けるもんかっ。

 眼の奥に輝く光がそう告げていた。


 

「お市、お市」


 お市は声を掛けられて眼を醒ました。

 おじいの背中で揺られている内に、眠ってしまったようである。


「なあに、おじい」


「気分はどうだい」


 笑顔を浮かべてそっとお市を川べりにおろすと、初次郎は隣に腰かけた。

 何でそんな事を聴くのだろうと、不思議に思いながらも、お市は笑顔で答えた。


「なあに、おじい。どこも何ともないよ」


「そうか。そりゃあ、困ったなあ」


「何で困るの」


 初次郎は優しくお市の頭を撫でた。


「いやなあ、生きてる内はな、痛いも辛いも苦しいも沢山あるんだ。でもな、同じくらいに嬉しいことや楽しいことも沢山あるんだぞ」


「変なおじい。何言っているのか判らないよ」


「そうか。そうだよな。ちなみにお市、簪はどうした」


 尋ねられて、髪に手をやって無いことに気が付く。


「あれ、無い。どうして……ああ、そうだ。藤次郎に……」


 呟くお市の姿は、見る見るうちに大きくなり、もう幼い姿ではなかった。

 そして、色々を思い出した。

 大切な事を、大事な人達を。今起こっている大変な出来事を。

 忘れていた事全てを、はっきりと今思い出した。


「あたしは……おじい、あ……たし……まだ……」


 ぼろぼろと涙を零し始める大きな瞳に、初次郎の照れたような優しい顔が映る。


「そうかい。それでこそお市だよ」


 初次郎はお市の頬に手を添えた。

 お市が泣いている時におじいがいつもしてくれる、ごつごつして、変な匂いがして、でも優しくてあったかい大好きな、おじいの手だ。

 その感触を忘れたことなど一度も無い。

 お市の瞳から止めどもなく溢れる涙は、愛おしい思いに溢れてもいた。


「泣かせて済まねえな、お市。お前の顔間近に見られて、これが本当の冥利に尽きるってもんだ。藤次郎も困っているし、そろそろ助けてやれ。ああ、それでな。戻る前によ、こいつの頭だけ、撫でてやってはくれないか」


 可愛らしい顔の女鹿が、いつに間にやら初次郎の隣に座っていた。

 その女鹿が顔を摺り寄せてくる。

 何処かで会った。何処で会ったんだろう。


 女鹿を見ている内に、お市は、自分がすっかり忘れていた事を思い出した。


「そうか。あたし……ごめんなさい。ごめんなさい」


 泣きながらお市は女鹿に抱き着いた。

 女鹿は満足げに一声なくと、お市の顔を舐める。


「おじい。あたし……」


 初次郎は悪戯な笑顔を浮かべた。


「堪忍してくれるってよ。良かったな。これで大手を振って戻れる。それでな、良かったついでにもう一つ。さっきな、もう痛くないって言ったの、ありゃあ嘘だ。本当はほらっ」


 と腰のあたりを指さす。

 初次郎が、指さした所が急に激しく痛みはじめた。


「痛い……けど……おじいっ、あたしっ、負けないっ。必ず何とかするからっ」


「ああ、お市はそういう子だ。俺はいつでも見守っているから、淋しくなんか無い。あと、いずれは曾孫見せてくれ。でも嫁に行くのは、慌てんな。ああ、そうそう、大事な事言うの忘れていた。目が覚めたら気を付けろよ。落ちるから、な」


 初次郎の豪快な笑い声が木霊して、お市はまた気が遠くなっていった。

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