第九章 挽回
第35話 山の不思議と絡む因果
お市が薄っすらと意識を取り戻し、無理矢理に目を開けると、眼下に川の流れを見下ろしていた。
ゆらゆらと揺られながら、結構な速さでどこぞへと進んでいる。
「ぶるっ」
アオの声が聞こえる。
風が頬を打ち、馬のたてがみが鼻をくすぐる。
アオの背中で突っ伏しているようだ。
体はまだ満足に力が入らないし、呼吸も辛い。それでも肺臓は力強く息を吸う。
アオの足運びは、お市を落とすまいと慎重ではあるが、とても力強い。老骨の年寄馬とは到底思えない、力強さだ。
アオはいつも、お市のここぞという時には、必ず、お市の傍にあった。
お市が赤子の時から共に在り、お包み姿のお市を蝮から護り、幼き日、迷子になると迎えに行き、初次郎が彼岸に渡った時にも、片時も離れず傍にあったのは、アオであった。
お市のここが正念場という時に、その傍にいつも居る。
慰める訳でも無く、ただ側にいる。
それが、どれだけ心強く、どれだけありがたかったか。
お市は、アオの足どりを、いつもにも増して力強く感じていた。
体は痺れて、上手く動かないし、手足にはやはり力が入らないが、気が遠くなるような激しい痛みは少しずつ遠のいているし、アオの背から落ちないように、何とか踏ん張れる力も戻ってきた。
まだまだ、まだまだ。
あたしにはやらなければならない事があるし、やれる事がある。
鈍くて重い痛みが押し寄せて来るが、お市は歯ぎしりをしながら、それに耐え、尚も手足を動かしていく。
何とかなる。いいえ、何とかして見せる。
ぼんやりとしていたお市の表情は、今やすっかりと生気を取り戻していた。
「ヒヒーン」
お市は、自分の想いに応えるかのように、甲高くアオが嘶いているのを耳にして、少しばかり元気づけられ、こくりと小さく頷いた。
消えては戻る痛みに、お市は、何度も気が遠く成り掛けては、其の度に己を取り戻そうと必死で、きりきりと噛む奥歯が軋むくらい踏ん張る。
ざぶり。
頭から水に放り込まれて、お市は、はっとした。
何時の間にやら、また意識が遠退いていたようで、水に放り込まれたお蔭で、自分を取り戻した。
すっかり、ずぶ濡れで、頭や着物から水を滴らせながら、お市は目を開ける。
「アオ……ここはどこなの」
ぼんやりとしながらも、腰くらいの水嵩から何とか立ち上がると、
「あっ」
と驚いた。
体が動くのだ。
手や足を水の中で、曲げ伸ばしすると、多少はこわごわするが、思い通りに動く。
知らず知らずのうちに、お市の顔に笑顔が戻り始めた。
満足では無いにしろ、手に足に力が入る。
そして更に気付いた事がある。
浸かっている水が、体の隅々に染み渡っているような、不思議な感じがしてとても心地よいのだ。そしてこの水には覚えがある。
ここは白鷺淵だ。
よくお花と遊びに来る白鷺淵に居るのだ。磨いたような澄み切った水を、滾々といつも湛えている、この淵は、深さこそ腰の高さ程度しかないものの、怪我をした獣もよく水浴びに来る処である。
名前の由来も、死に掛けた白鷺が此処の水を浴びると、忽ちに元気になり、天高く舞いがったという言い伝えにある淵であるのだが、まさか本当に、こんな効能があるとは思いもよらなかった。
アオは知って居たのだろう。だから此処に連れて来てくれたのだ。
アオ自身も水に飛び込み、かぶかぶ水を飲んでいる。
お市は、アオに「有難う」と、小さく呟いて頭を下げると、ゆったりと水の中に体を横たえ、揺蕩う水に全てを任せ、力を抜いた。
緩やかな流れの音が、耳の中に響き、水の健やかさが体の中に染み渡る。
お市は流れる澄み切った水に、黒くて美しい長い髪を、靡かせながら考えていた。
藤次郎、お福、米之助の喜ぶ姿。照の笑顔。辰吉の照れくさそうに笑う横顔。お花との楽しい日々。お豊の優しい眼差しに、清七の精悍な顔つきと頼りになる後ろ姿。おつかわし屋の皆の実に楽し気な笑い声。
その声に五月蠅そうな顔をするアオに、足元でいつも嬉しそうな黒丸。欠伸しながら、人を小馬鹿にしたような猫の山吹。
今も昔も、その全てが愛おしい。何者かの悪意による哀しい思いを、もう誰にもさせたくない。
そんな心持に大きな心配事が影を落とす。
お花は無事だろうか。家の皆は無事だろうか。藤次郎は無理をし過ぎていないだろうか。辰吉はどうだろうか。
おっ母さん。お父っさん。お婆。
身に余り過ぎる大きな不安の濁流に、押し流されそうなお市の心の中で、祖父の初次郎との思い出が、教えてくれた言葉とお呪いが、響き渡る。
『困ったら、困りきれ。哀しかったら、泣き喚け。我慢なんて洒落た事は考えんな。そしてな、その後が一番大事だ。笑え。大きな声で笑い飛ばしてやれ。嫌なことは何もかんも笑い飛ばしてしまえ。遠慮なんかいらん』
初次郎の顔が思い浮かぶ。
『いいか、御呪いだ。憶えとけよ』
初次郎は、素っ頓狂な声をあげ、
『うまのおおづら、うしのおおづら、つらつらあわせて、えんやよい。えんやよいったらえんやよい』
と調子よく、唄うように声を上げると、うわはっはとお市の前で笑って見せた。
そうだ。
困りきればいい。不安がればいい。思いっ切り悩んで悩んで悩み倒して……。
その後は、やることをやり切るだけだ。
あの恐ろしい男を捕まえて、全てを終わらせる。お豊さんや、安兵衛親分や他の恐ろしい思いをした皆に、済まないと言わせたい。
お市は、小さく、そして謡うように唱えた。
「うまのおおづら、うしのおおづら、つらつらあわせて、えんやよい。えんやよいったら、えんやよい」
ふっと肩の力が抜けて往く。
何時ものような、勢いと勇み足ではなく、又気負った使命感でもなく、やり遂げねばならない大事な事だという、不思議な強い気持ちが湧いて来る。
ざあっと気持ちのいい強い風が吹いた。晴嵐が何処までも何処までも、涼やかに吹き抜けていく。
強くてとても心地いい風を、身体一杯に感じ、其の風の一部になったように、色々な景色と山の表情を感じ取った。
山はお市を知っており、お市も山を知って居る。
現に今も、川獺がすぐ隣でお市の髪に戯れながら、心配気に覗き込み、岸辺には大きな兄弟猪が、鼻息も荒く辺りを見渡している。
此の辺りの山々に棲む鳥獣は、殆ど、お市の味方である。
「皆、有難う。少し力を貸して。お願い」
「ぶるるっ」
当然だと小さいが力強く、アオが嘶いた。
お市の心根が風に乗って、辺りの森へ山へと降り注いだ。
山は不思議を起こす。
息をしながら、不思議を起こす。
何十年も何百年も何千年も前から、変わらず大きく息をし、其の度に不思議を起こしてきた。
鳥に獣に虫に、土に樹々に草花、石に鉄に水に炎まで、存在するものその全てを、大きく包み込み、息をしているのだから、少しばかりの不思議は当たり前なのかも知れない。
山が息をしたその瞬間に、人々の様々な想いが重なると、これまた、不思議を起こす事がある。重なる不思議は、いいことなのか悪いことなのか、誰にも分からないし、予測も出来ない。
この瞬間も、因果に係り合った人達の思いが絡まり、山の息とぴったりと重なった。
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