第33話 凶と狂
甲斐犬は一文字で表せば『忠』の犬だ。
主人以外の言う事には従わず、主人の傍に居る事を誇りにする。
そんな犬で、生涯一主人であり、その愛情の深さは並々ならぬものがある。
「うーうーうーっ」
そんな黒丸が言付けに従い、命の危機にさらされているお市を置いて、奔っていた。泣き声のように唸りながら、鬼の形相で駆け抜けていく。
藤次郎は己の許へ駆け寄ってくる黒丸の表情にすぐさま、何かあったと確信した。
今までに見たことのない様相なのだ。
少し離れた所に居る辰吉へ、大声で呼びかけた。
「辰吉さんっ」
辰吉もすぐに気が付き、役人との話を折って駆け寄ってきた。
「黒っ、どうした。何を咥えて―― ああっ」
藤次郎はたちまち顔面蒼白になり形相を変えた。
黒丸が咥えているのは、お市が命の次に大切にして肌身離さず着けている、茜色の珠簪である。
黒丸は、藤次郎が気付いたと確認すると、咥えていた簪をとても大事そうに藤次郎に渡すと、
「うぉおをををん。うをををぉぉおおおん。うおおおん」
と、それは必死に泣き声を上げた。
辰吉も黒丸の尋常ならざる泣き声を聞きつけ、肝を冷やした。
黒丸が此処まで取り乱すことと言えば、お市の事しかない。
藤次郎は此の旅に出る時に、お市に軽口を叩いて居た。
『暇があればその珠簪磨いているよね。姉さんの身に、万が一でもあったなら、その簪で報せてくれれば、直ぐに分かるな』
『あたしよりも、お花ちゃんが心配なんでしょ? 助平次郎。あたしの簪で誰を想おうと勝手だけれど、ちゃんと助けてあげなさいよ』
この旅の間に、話した事の一つである。
藤次郎は不安で顔をクシャクシャにした。
「あの話は、無茶させない為の方便だよ。ただの念押しだったんだ。ただの釘刺しだったのに。なんだよっ、これは。なんなんだよっ」
藤次郎から話を聞いた辰吉は、それこそ怖い顔になった。
「藤次郎っ、泣くんじゃあ無い。いいかっ、お嬢が伝えたいことは、自分の事じゃあないっ。おつかわし屋に、お花に何かあったってぇ事だ。お前はすぐさま戻れっ。お嬢と若女将は俺に任せろっ。戻れっ、直ぐにだっ。黒っ、おつかわし屋を頼む」
「わおわおわおぉおーん。わおぉおーん」
高らかに切なく黒丸は吠えると、黒い旋風となって走っていった。
藤次郎は歯を食いしばりながら、呟いた。
「用兵は神速を……旨とし、信義を重んじ……いかなる時も……己の私情に……打ち負けてはならないっ。くそっくそっくそっ」
激しく泣きながら怒っている藤次郎に、どうしたと訊ねてきた役人に、
「申し訳次第もございませんっ。お許しくださいませっ」
と、大きく声を上げ、ぺこりとお辞儀をすると、繋いであった馬にひらりと跨り、役人が止めるのも聞かないで、一目散におつかわし屋を目指した。
「思ったよりは上出来、上出来」
肩に女物の着物を羽織って、傾奇者を気取っている、目付きも何かも悪い、悪党を絵に描いたような髭面の男が、顔の刀瑕跡を掻きながら呟いている。
その男の眼前には、猿轡をされ両手両足を縛られた、若い女たちが転がっていた。
すすり泣いている者も居れば、あちこちに青痣と擦り傷があり遠い眼をした女もいる。
皆、近在から攫われた若い娘達ばかりであった。
そんな女たちの中、必死に山人の男達が話している内容に耳を傾け、逃げる機会をうかがっている若い乙女が居た。
おつかわし屋の女中、お花である。
手足は縛られ猿轡をされ、泣きはらした瞳は赤くなっているが、光は失われていない。
「なぁっ、兄者っ。攫ったおつかわし屋の娘は何処にいるんだ」
片足を引き摺るように、額に大きな傷跡がある男が近寄ってきた。
源太である。薄ら笑いを嬉しそうに浮かべるその顔の額の大きな傷跡は生々しく、腕は歪に曲がっている。
「源太か。役立たずの糞野郎が」
髭面の目付きの悪い男は、ぺっと唾を吐いた。
「いざというときには屁っ放り腰、そのくせ堪え性も無え糞が、でけえ面してんじゃあねえ」
山人姿の数人の他の男達が、女たちをじろじろと眺めつつ、薄ら笑いを浮かべている。
草津で辰吉と死闘を繰り広げていた一団とはまた別に含みをもたされている山人達で、そこそこの人数を擁してもいた。
「おいっ、てめえら、買い付け人が来るまでは手ぇ出すんじゃあねえぞ。貴様らの臭ぇ一物で汚しちまったら、値打ちが下がる。生きて銭貰いてぇなら、触るんじゃあ無ぇ」
そう、どやしつけると、うんざりだという表情を髭面の男は浮かべ、吐き出すように言った。
源太がその声を聴き付け、何やら、ニヤニヤしながら髭面の男に近付いてきた。
「何だぁっ。頭でもいかれたかっ、薄気味悪い面しやがって」
「へへ、いい金儲けにって、話を持ち掛けたのは他ならぬこの俺だ」
「ぬかしやがれっ。てめえは仕返ししたいが為の頼みだろうがっ」
「ああ、それでよ。おつかわし屋の娘は兄いにやる。その分の銭もいらねえ。ただな、かっ攫って、売り飛ばすだけじゃあ面白くねえんだ。身代金たかって、用意出来た処を毒撒いて村ごと火ぃかけようや。面白えし、金になる」
源太の薄暗い眼がギラリとひかり、その光に髭面の男は苛つき、思いっ切り顔を殴り付けた。源太は悲鳴も上げずに吹っ飛んで倒れ込む。
「この糞がっ。襲うってのはな、隙に付け込むもんだっ。用心している奴等相手に構えるなんざぁ、頭の中に蛆が涌いているとしか思えねえ。いやさ、蛆虫すら気分悪くするくれぇに、寸足らずのお頭でこれ以上妙な事を考えるなっ。解ったかっ、解ったかって言ってんだぁっ」
髭面の男が更に、手を挙げて迫ろうとしたその時、源太がどんっと身体ごとぶつかった。
「て、テメェ……何しや……がる……」
短刀を深深と突き立てられ、腹から銀色の刃を生やした髭面の男は、眼を見開いて、倒れ込んだ。
「へっ、言われた通り隙に付け込んでやったんだぁっ。もう、おめえは要らねえっ、死ね死ねっ」
源太は叫びながら、髭面の男を刺し続けた。
その手が其の顔が朱に染まっても意に介さず、周りにいる他の山人達は、常軌を逸したその姿に圧倒され動けずにいた。
「お利口な兄貴、何とか言ってみろよ。ほら、ほらっ、ほらっっ。なあ、てめえらっ、一人分の分け前儲けたぜ。銭は皆で山分けだあ」
怒声と共に迸る血飛沫を浴びる顔から覗く双眸は、歪んだ憎悪が吹き出し、その総身から立ち昇るのは血の匂いだけでなく、狂気を孕んだぞくりと背筋が寒くなる殺気であった。
最早小悪党が放つ殺気では無い。
源太は、女達の方へと、血に濡れた短刀を握り締め、返り血を浴びた顔に歪んだ笑いを浮かべながら、近付いていく。
「おつかわし屋の娘っ、何処に居やがる」
その怒鳴り声を聞いて、覚悟を決めているお花すら気が遠くなりそうで、顔を背けた。
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