第32話 斃れて往けど

 お花ちゃんっ。


 はっと我に返ったお市は、川床に倒れこんでおり、起き上がろうとして川の浅瀬でひっくり返った。

 体に手足に、まったくと言って良いほど、力が入らない。

 目も霞み、呼吸もするのが精一杯で、身動きもままならない。

 体中に激痛が走り、痛みの余り、水に浸かっているにも関わらず、珠の汗が噴き出して来た。


「うっ、うううっ……」


 遠のきかける意識を保つべく、お市は歯を食いしばり、やっとの思いで手をついて体を起こした。川が小川で何とか溺れずにはいられたのだが、全くと言って良いほど力が入らない。

 雲雀となり、清七の捕り物を助けたときに、藤次郎と辰吉に言わたことを今更のように思い出していた。

 魂移りをしている時、鳥獣が怪我をするとどうなるか判らない。十分に気をつけろと。

 そして、それを今当に体験している。

 自分の命が体から流れ出ているのがはっきりと解るのだ。


(あたしは……あたしは……)


 お市は、自分の身に何が起こっているか、はっきりと自覚していた。その上で怖いのを噛砕いて呑み込んで、覚悟を決めた。

 今のあたしに出来ること、最後の最後まで出来る事。


「わんわんっ、わんわんっ、わんわんわんっ」


 黒丸がお市の尋常非ざる様相に心配の余り、吠えかけてきた。目の色が変わっている。

 アオが鼻先でお市の肩を支え、襟を噛んで引っ張る黒丸も手伝い、お市は何とか、川岸へ這いあがった。

 

 息をしっかりと吸い込まなければ……息をしっかりと……。

 お市は自分の躰の有り様に、涙をポロリと零した。

 怖いし痛いのもあるが、申し訳なさ過ぎてもある。


(御免なさい、おっ母さん。御免なさい、藤次郎、辰吉さん。約束、守れそうにない……)


 お市は濡れそぼった髪にとめていた茜色の珠簪を抜いて、黒丸に語り掛けた。


「黒……藤次郎に……藤次郎に……」


 震える手で、簪を差し出すお市の手を、顔を、泣きそうな顔をしながら、黒丸は舐める。


「ぶるるるっ」


 アオが足を掻きながら、黒丸を促した。


「うーっ、うーっ」


 黒丸は怒った顔でアオを見上げ牙をむき、不安そうな顔でお市を見た。


「お、お願い……。貴方しかいないの……黒丸」


 お市の涙ながらの切々とした頼みに、黒丸は折れた。


「わーうっ」


 簪を大切に咥えて受け取ったものの、その場を離れようとしない、否、離れられない黒丸に、お市は声を掛けた。


「……藤……次郎へ、お花ちゃんを……皆を……お願い」


 意識が確かなうちにと、息も絶え絶えながらお市は必死に声を絞り出した。

 お市の眼をジッと見つめていた黒丸は、きっとした目をすると、一声も発さず、一顧だにすらせず、簪を大事そうに咥え、藤次郎のもとへ全力で駆け出した。

 黒い影矢となって地を飛ぶように藤次郎の元へ急ぐ。

 ただ、その悲壮感たるや、泣きながら走っているようであった。


「お願い……ね。堪忍ね、藤次郎、おっ母さん、堪忍……守れ……そ……うに」


 薄れかけた意識が、肩の痛みで目が覚めた。アオが噛みついたのだ。

 瞬間、意識が戻る。


「アオ……。大変な時……いつも……傍に……」


 ふっと楽になりかけた息が、強い衝撃とともにまた苦しくなり、大きく咳き込んで、そのまま眼を閉じた。



 お市は気が付けば、遠い日におんぶされたのと同じように、誰かの背に負われて揺られていた。

 甘くて柔らかな匂いが鼻をくすぐる。

 山躑躅の匂いだ。顔を上げると穏やかな笑顔の初次郎の横顔が見えた。

 何時の間にやら、おじいの背中に揺られていたのだ。

 ゆらゆらといつもの、山道を進んでいる。


「おじいー」


「おうよ」


 初次郎が大きな笑顔で、振り返る。

 太陽のように明るく、優しく包み込む、大好きな笑顔である。


「怖かったよ。痛かったよ」


 お市は、幼い時分の姿になって、初次郎の背中にしがみついていた。


「そうか。大変だったからなぁ」


「うん」


「お市。お前はえらい子だ。とてもよく頑張った。本当によく頑張ったぞ。流石は俺の自慢の孫だ。もう、怖くない。もう痛くないぞ」


「うんっ」


「じいじいは傍にいるからな。心配するな」


 安堵と共に頷くお市の大きな瞳から、はらりと大きな涙が零れる。涙のしずくは傾きかけた日の光にそれは美しく映えて、儚く輝きを放っていた。

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