第八章 流転

第31話 悪災が降り注げども

 お花は突然飛び出してきた女鹿に驚いた。

 更に驚いた事に、じっとこちらを見て、何か伝えたそうに鳴きながら近寄って来る。

 お市ならわかるのかなと思いながら、怖がらせないようにゆっくりと手を伸ばしてみると、逃げるどころか、一声鳴いて着物の裾を噛んで引っ張るではないか。

 お花は、初めての事に、少し吃驚したが、愛らしい顔で怖くはない。

 何やらこの鹿からは感ずるものがあるのだ。

 余りにも鹿が引っ張るので、何かいるのかと辺りを見回してみると、こちらを覗っている男の姿を見つけた。

 あからさまに怪しい男である。

 お花はすぐさま母屋へと走りながら声を上げた。

 大女将の照からきつく言い使っていたのだ。

 今は戦中と思って、何がやって来るかは分からないから、十分に用心しなさいと。


「誰かっ、助けて下さいっ」


 お花の声に呼応して、木陰から男が二人飛び出してきた。

 よりにもよって、飛び出してきた男達は、薄汚れた獣の皮を纏った山人の一味であった。

 山刀と縄を構えて、走り寄って来る。


(させるもんかっ。お花ちゃんには何もさせない)


 角こそないが速度に乗ったしなやかで強い躰の体当たりは、そこそこの威力がある。大の大人でも弾き飛ばせる。

 お市は、勢いよく駆け出して、そいつらへ突進しようとした。

 その時である。

 鋭い痛みを感じて、地に突っ伏し、焼ける様な痛みと同時に、力が入らなくなってしまった。

 何とか立とうと四肢に力を入れ、首を持ち上げると、鋭い痛みが一つ、二つとお腹と首筋に奔り、すっかりとひっくり返ってしまっていた。

 弓で射られたと気づいた時には、体中の力が抜けて往く。

 お市は薄暗くなる景色の中で、山人の男達がお花に迫る処を、只々見ているしかなく、小さな悲鳴が聞こえたのは間違いないが、世の全てが、自分からぐんぐんと遠のいて往き、周りはだんだんと薄暗く、とうとう真っ暗になってしまった。


 おつかわし屋では緊張の糸が緩み、皆ホッと一息ついていた。

 しばらくぶりに顔に笑顔が戻っている。

 此の処物騒な話ばかりで、落ち着かない毎日だったのだが、それが漸く終わりを迎えたのだから無理はない。

 辰吉からの報せが届き、山人の頭も踏まえた一味を一網打尽にする好機を逃すまいと、酒井田差配の号令一下、代官所の侍、捕り方が総動員され草津へと向かったのだ。

 おつかわし屋の守りにと、配されていた者達もこれに応じ、皆発って行った。

 おつかわし屋は街道を支える馬借である。本来護る事も生業の一つであり、護られなければならない軟な稼業でも無い。

 当然と云えば当然の結果である。

 だが、皆とは違う面持ちの二人が居た。


「米之助。此度の一件、貴方は如何思われますか。主としての検討を述べて下さい」


 力強く描かれた、愛嬌のある河童の掛け軸の前で、照と米之助は正座したまま向き合っていた。

 照の顔は厳しく、米之助の顔は思案顔である。浮かれている皆とは様相が大分違っていた。

 顎を撫でつつ、河童の絵を眺めながら、米之助は言った。


「守りの兵が、皆、手柄欲しさに先陣へと我先に、往ってしまったようなもので御座いますな。手薄になった本陣の守りを如何に固めるかが肝要かと存じます」


「おつかわし屋は、近隣の宿場町まで名にし負う馬借稼業。山人如きできりきり舞いをしたと笑われる訳には参りませぬが、驕りも油断も在ってはならぬもの。米之助、しかとした采配、振るわれませ」


 背筋の伸びる照の物言いに、米之助は頭を掻いた。


「お話し中、御免下さいやし」


 米之助が右腕と頼みにする伊平の声で在った。思慮深い男が態々話の腰を折り、口をはさんでくる。

 米之助と照は無言で頷き合った。

 ガラリと米之助が障子を開ける。


「伊平。何があったんだい」


「へえ、お花が遣いに出たっきり、中々戻らねえもんで、辺りを六郎と探していたら、こんなものを見つけやして……」


 伊平が手にしていたのは、お市と色違いの藍色の珠簪と、鼻緒の切れた草履で在った。

 草履には野の花が鼻緒に挿し込まれている。間違いなくお花のものだ。


「これはー何ということだっ」


 これらの物が雄弁に語るのは、お花の身に何かあったという事だ。

 米之助は、声を荒げそうになるのを懸命に堪えた。


「店の者達には報せたのかい」


「いえ、まだ何も。探しに出した六郎と杉作以外は誰も知りません」


 六郎も杉作も腕が立って頭も回る、頼りになる男達である。

 伊平は心配そうな表情で言った。


「獣の仕業ではありやせん。近くに、女鹿の射られた死骸がありました。矢も突き立ったまま、大事な獲物を放り出す、狩人なんざあお目にかかった事はありやせん。よっぽど慌てて逃げたんでしょう」


「山人どもの仕業だな」


 苦虫を嚙み潰し、飲み下したような、顔と言葉で米之助が言った。

 ぞろりと動き出しそうな慌てた場の空気に、照は正座したまま、びしりと言葉を放つ。


「落ち着きなさい。米之助。焦りは禁物。敵に利するだけです。貴方は二代目で此処の主ですよ。しかと差配なさい」


 米之助はふうと大きな息を吐くと、手を顎にやった。考える時の癖である。

 落ち着いた声で皆に伝える。


「まずは半時。その間目端をきかせて、山の気配を手繰り、敵を見つけ、お花を探し出そう。山人共より、お花の無事が大事だ。手勢は多いに越した事はない。目端が利いて口が堅い衆、それらを守る腕っ節の立つ衆、可能な限り、多く集めて直ぐ様にこの辺りで潜みそうなところを、虱潰しに当たれ。解っているとは思うが、川や沢に近い所は、遠目から、煙の立っている処に見当をつけろ」


 照が更に告げた。


「敵に悟られず静かに速くと戦上手の武将も申していた通り、騒がず速やかに願います。半時も過ぎたなら、私の口から街道筋の皆様に、精々慌てて伝えましょう。敵の手の者などは其れで騙せるかと思いますれば」


 米之助も伊平も異論なぞ有る訳もない。


「ならば、私は手配を兼ねて、早速出かけて参ります」


「おつかわし屋の馬借の味、外道に存分に振舞ってみせてやりやしょう」


 静かなる怒りが、照の体から立ち昇り、米之助に伊平の固い決意が、その場を覆っていた。

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