第30話 難は去らず未だ傍に
大きな樹の根元に、寄り掛かる格好の状態でお市ははっと目が覚めた。
木の枝に覆われ筵まで掛けられて、埋もれている。
藤次郎ね。気遣いありがとう。
そう思いながら、躰を起こす。
目元に零れた涙があったが、べろべろとなめ取られて、矢張りというか当然というか、傍にはあぱんとした表情の黒丸が、目が覚めたお市へちぎれんばかりに尻尾を振って、じいっと見つめている。
「いつも有難う。黒丸」
お市は微かな胸の痛みが黒丸に舐め取られたような気持になって、ぎゅっと抱き締め、わしわしと一頻り頭や腹を撫で繰りまわした。
黒丸は、べろんと舌が嬉しそうに垂れて、目がキラキラした様相を加えて、誰の目から見ても、三国一の幸せな犬であると思える、これ以上は無い嬉しそうな顔であった。
「ぶるるるる」
振り返ると、いつの間にやらアオが、こちらを気にしていないふりをしながら、草を食んでいた。
勿論その視線は、ちらちらとお市に注がれているのだが。
お市はアオを見て微笑んだ。
辰じいと藤次郎を置いてきたのね。しょうがない馬の爺様ね。でも……有難う。
すっかりと気持ちが落ち着くと、喉が渇いてきた。
喉の渇きを潤すべく、近くの小川に向かった。
上から川底が覗ける清流で、深さも脹脛くらいで浅く、光に水流が煌めいている。
水が大好きな黒丸が、ざぶりと水に飛び込むと、水飛沫をまき散らしながら、はしゃいでいる。
バシャバシャと、行ったり来たりしている黒丸を見ているうちに、お市は知らず知らず、笑顔になっていた。
前にもこんな事をしたなあ。
そういえばお花ちゃんは今何しているんだろうー抜ける様な青空に円を描きながら飛んでいるトンビを見ながら、ぼんやりと考えていた。
魂移りしたら、あんなに高い所を飛んで、お花ちゃんに会うのも、ホンの一時もあれば十分ね。
でも、もう、懲り懲り。
迂闊に、乗り移らないようにしないと、藤次郎や辰じいに心配かけるし、何より、おっ母さんに知られたら、まずいしなぁ。
お市は、空高く舞うトンビを見て、
「あんたはいいわね。のんびりしていて」
と、呟きなのか声を掛けているのか、自分でも分からないまま、声を出していた。
ピーヒョロロロ。
高い高い青空に返事の様な、優美な鳴き声が響き渡ったかと思うと、お市は強い目眩を感じた。
途端に、目の前の光景風景が、眼が廻る程に速く、川が、山の尾根が、木々が、村が、風の様に次々に流れて往き、気が付けば見慣れた里山に立っていた。
(あれ? 此処は畑の洗い場の裏山じゃない……何で?)
自分の様子が置かれている状況がよく分からないお市は、大いに戸惑いながら、足を進めた。
自分を見回して、今どうしてこうなっているか、さっぱり分からないが、夢現で無い事だけはわかる。
細い足に白い毛先の蹴爪。
振り返ると薄茶色の毛に雪を散らしたような斑模様。
間違い様も無い。
若い女鹿に魂移りをしてしまったようだ。
ほっそりとしながらも、しなやかな強さを持った足に力を入れ、小川の有る野菜の洗い場へと足を進めた。
木陰から覗くと、小川でお花が野菜を洗っている。
折角だし、驚かしてみようかな。
お市はお花に声をかけようと足を踏み出したその時、お花の背後で動く人影を見つけた。
間違いなどするはずも無い。山人達である。
その中の一人に、板橋宿で絡んできた源太も居る。
お市は息をのんだ。
よりにもよって井戸に平気で毒を投げ込み、仲間内を刺し殺し、顔色一つ変えない凶状持ちだ。
山人達と何やら話して、姿を消した。
仕返しをしようと企んでいるに違いない。
好きにはさせないっ。
お市は細くて力強い四肢で、茂みを軽々と飛び越えると、すぐさまお花の前へと躍り出た。
(お花ちゃん。ここは危ないっ)
お市はそう叫んだ。
しかし、当のお花は不思議顔で、おずおずとお市の顔に向って手を伸ばして来る。
お市は自分の言葉がうまく伝わらないと知るや、お花の着物の袖を軽くかんで引っ張った。
(あっちを見てっ。直ぐ逃げるの)
伝わらない言葉にやきもきしながら、お市は必死に訴えかけた。
お願い。気付いて。
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