第29話 山神様の霊験

 霞の権蔵は激痛に身を捩りながらも、目が吸い付いているかの如くじっと見ていたが、不意に激しい憎悪に満ちた目ではたとお市兎を睨みつけ、忌々し気に告げた。

 

「山神様、本当に居たのかい。ならよ、今更何でしゃしゃり出て来やがるっ。助けてくれって、祈って祈って祈り倒して、蛆に集られながら死んでいく、腹を空かせた無宿の餓鬼共には応えねぇくせによぉ。まあいい。どうせ俺はもう終いだ」


 皺を造りながら牙を剥き唸る狼達を眺めると、不敵な笑みを霞の権蔵は浮かべた。

 灰王はそんな権蔵を静かに見据えながら、「わふっ」と群れに、辺りの山人の賊たちを更に見つけだして、襲うように指示をし、狼達は其れに応えてぱっと散る。


 そんな狼達を見て、次は自分だと、動ける山人の賊たちは我先に逃げ出した。

「た、助けてくれぇ」「もう、山で悪さはしねえ」そんな事を口々に、中には悲鳴を上げている者までいた。


「悪いことしかしねえ奴には天罰かい。悪は生きたまま喰われるのも仕方ねえってか。だがな、山神様、悪さどころか虫も殺さねえ様な連中に襲いかかる不幸は、止められるのかい」


 お市がピクリと耳を動かす。


「へっ、アンタが気にかけているあの餓鬼どもの不幸、止めて見せな、山神様。地獄でしっかりと見ておいてやるよ」


 権蔵はそう吐き捨てると、口の中で何かを嚙もうとしたが、突如現れた辰吉がすかさず樹の枝を差し込み、口の中から何か取り出し、放り投げた。

 藤次郎は手拭に石を包み込んで、飛礫をいつでも放てるよう辺りを窺い、手足を力強く噛み裂いて抑えている狼達は、より強く手足を噛み押さえつける。


「味方だとは言え、こいつはこいつで、中々の迫力だな」


 藤次郎の美丈夫ぶりと、狼達の様相に驚きを隠さないまま、辰吉は、懐から手拭を取り出して猿轡を噛ませ、


「安心しろ。毒なんかじゃあ死なせやしない。お前さんにこんなに楽に死なれちゃあ、安兵衛兄いに姐さんも許しちゃあくれまい。獄門台に晒されるその日まで、付きっ切りで死なせねえ。後な、嬢に坊の里の家には代官所直参の侍達に詰めて貰っている。山人風情にゃあ手も足も出せやしねえよ」


 そう言いながら、いつの間にやら切り出していた蔦を縄代わりに、霞の権蔵を雁字搦めにすっかりと縛り上げた。

 そうして、周りを取り囲んでいる狼達へしっかりと頭を下げる。


「助かったよ。有難うな。命の恩は誰が相手でも忘れない。約束するよ。取りあえずこの野郎は任してくれ」


 狼達はその場から離れ、入れ替わるようにゆるりと灰色の大きな狼が近付いてくる。

 辰吉は、その背に立つ野兎に眼を遣った。


「命を助けてくれてありがとう。お嬢」


 辰吉は確信をもって野ウサギに言った。

 野兎は白い腹毛をなびかせながら、力強くうんうんと頷いた。


「兎はそんな風に頷いちゃなんねえよ。お嬢」


 ごめんなさいと、前足を拝むように揃える兎に、


「だから、駄目って言ってるだろう。化け兎が出るって絵草紙にまた書かれるぞ。」


 と、小声で囁くと、横たわっている若い十手持ちの亡骸の身形を手厚く整え、


「済まねえ。いつかそっちで詫びを入れるから、それまで穏やかに、待っていてくれ」

 

 手を合わせて頭を垂れた。

 そして、振り返ると木挽きの小屋へ声を掛けた。


「小春さん、清七さん。もう出来ても大丈夫だ」


 声を聞きつけ、木挽きの小屋から小春が顔を覗かせ、恐る恐る様子を窺っている。


「辰吉様っ、ご無事でっ」


 小春は大きな声をあげながらも、小きょろきょろと目を皿のようにして、辺りを注意深く見回していた。

 と、灰色の大きな狼と目が合い、度肝を抜かれて小さく悲鳴を上げる。

 その声に、ぐったりとした清七が薄目を開けた。


「こりゃあ、どうしたことだ……」


 藤次郎がすぐさま駆け寄り、横たわらせて具合を見る。


「清七さんっ。お気を確かに。藤次郎です」


 藤次郎の慌てた声に、お市の気持ちは益々慌てた。


(清七さんっ。無事なのっ、怪我はどんななのっ、清七さんっ)


 ひとしきり不安を大いに煽られたお市兎が、背中でキーキー騒ぐのを煩く思った灰王は、お市が心配している人間の男を怖がらせないように、ゆっくりと歩を進めて近付いていった。


 小春は目を瞠った。

 体つきがとても大きく恐ろし気な狼が、悠々と清七に近付いていくのだ。しかも、藤次郎も辰吉も助けようとしない。


「嫌っ、喰らうなら私をっ。その代わりこの人だけは、この人だけは……」


 藤次郎や辰吉が声をかける間も無いほどに、瞬時に、迷いなく大きな狼の前に体を差し込み、体を張って清七を庇う小春に、さしものお市も気が付いた。


 ああ、小春さんは清七さんを心底好いているんだ。

 そんな小春を、ぐいっと押し退け清七が更に割って入る。

 大怪我をして、痛みのあまり、意識を失いそうになっていたとは思えない程の、力強さであった。


「……駄目……だ。喰われるなら、この……私を。小春は、命に替えても……頼む……喰らうなら死にぞこないの……私にしておくれ。この通り」


 震える手で小春を必死に庇い建てし、灰王を見上げながら頼み込む清七。


 お市は空を見上げて、泣きたくなった。

 皆が無事であった事。

 怖い事がやっと終わった事。

 自分が清七のことを、憎からず思っていたこと。

 そして、同時にそれは最早叶わぬものであるという事も。

 その全てをたった今思い知ったのだ。


 辰吉は、大きく咳ばらいを一つすると、全員の耳に入るように口上した。


「山神様に畏み畏み、申し上げ奉ります。これなる男、清七は、何分深手の故、すぐさま人界の医者に診せたく存じます。霊験あらたかなご神威をお示し、悪人を懲らしめ、お救い戴きましたこと、まずは言上を持って御礼申し上げ、御眼汚しとご無礼の段、平にお詫び申し上げます。何卒、憐れを思し召しになり、お怒りをお納め下さい。命ばかりはお助け下さいます様、お願い申し上げ奉ります」


 大音声で芝居がかった口上であった。

 目敏い藤次郎は、駄目押しで、黒丸に


「黒っ、わをーんっ」


と遠吠えを促した。


「わおーんっ」


 黒丸が高らかに、そして誇らしげに遠吠えを上げた。 

 その遠吠えに、灰王が堂々たる遠吠えを返した。一斉に他の狼達も灰王に倣い、遠吠えを行い、一帯に木霊する。

 その効果は覿面であった。

 残って居た山人達は、元々の異常な様相と、狼達の遠吠えによる威容に、すっかりと震えあがり、得物を投げ捨てると観念した。

 意気消沈していたお市は、芝居ががった口調に、自分を取り戻し、髭を棚引かせながら、片手ならぬ片足を挙げ、


(分かっているわよ。まだ踏ん張る)


 と藤次郎に伝えた。


「ありゃあ…何だ」


「兎が狼の背に跨っている」


 狼の背に、野兎が跨っている事に、ようやく気が付いた清七と小春は、大層驚き、清七に至っては、驚きの余り、痛みを忘れるほどであった。


「山神様……」


 呟く小春の手を清七はしっかりと握りしめていた。


 お市はその様子を苦々しく、反して嬉しくもある複雑な胸中で眺めていた。


(ここは、せいぜい神様の振りをしてあげるわ)


 お市は長い耳をピンっと立て、灰王の背でふんぞり返った。


(周りのみんな、姿を見せて、近くまで来て。血の匂いはもうさせないから。お願い)


 ざわざわと樹々が蠢き、狼達のみならず、狸に鹿に猪といった、お市を心配して集まっていた、近在の獣達が、お市の呼び掛けに応え、続々と顔を出した。

 兎のお市はここぞとばかり、鹿や猪達に山人たちを突かせ、手の器用な熊や狸に、弓矢に刀、槍などを取り上げさせた。

 鉄砲に至っては、先に狼たちが咥えて持ち運んでいる。


「すすす、済まねえことをしました」


「金輪際、悪さしません。殺生、辞めます」


 迷信深い山人達は口々に詫びや悲鳴を上げると、逃げ出す意気地すらすっかりと失くしてしまい、震え上がったままだ。


 藤次郎が此処に来る前に発した報せで、峠の奥むこうから押っ取り刀の助っ人の里人と役人達が、駆け寄って来るのを認めて、辰吉は立ち上がり両手を振った。


「おおーいっ。こっちだぁ」


 その足下には縛り上げられた霞の権蔵がいる。沢山の山人達も。

 道端で寝かされている若い十手持ちに、お市は手向けの野菊を摘むと、そっと捧げた。


(有難うございます。守って下さって。極楽浄土へ迷わずにお向かい下さい)


「お、おいっ、あ、ありゃあ何事だ。獣が一堂に会しているぞ」


「なんなんだ、こ、こりゃあ」


 騒ぐ、役人や里人を尻目に、お市はウサギながら、ふうと一息、安堵のため息をついた。


(みんな、有難う。森に帰ろう。灰王、本当に有難うございました。約束は決して違えないから、困ったら頼って来てね)


 とお市は、灰王の背から飛び降りた。

 灰王は、野ウサギのお市を親愛の情をもってぺろりと舐めると、満足げな表情を浮かべ、仲間を引き連れ樹々の中へと消えていった。

 お市は人が歩くように、二本足で小春のもとへ近づいた。

 驚きと恐怖で固まっている小春に、落ちている松葉を拾うとその手に押し付けて、ぽんぽんと清七の肩を叩いた後、鼻の頭を思いっきり叩いて、山の中へと駆け込んだ。

 駆け込む姿は、只の兎の姿だ。


「痛たた」


「清七さん……」


 ひっしと抱き合っている二人の目と目が重なり合う。


「いいところ、無粋で申し訳ない」


 優しく声を掛けられ、我に返るとそこには笑顔の辰吉が居た。


「このまま放っておいたら、清七さんは下手したらあの世行きになっちまう。手当させてくれな」


 顔を真っ赤にする小春と清七に、優しく辰吉は微笑んだ。


「俺が不甲斐ないばかりに、怖い思いをさせちまった」


 ぶんぶんと激しく首を振る、小春の手にある松葉を、辰吉は眺めた。


「松は待つ。しかも揃いの二枚松葉だ。山神様が二人の行く末の報告を待っているってよ」


 頷く清七と小春は、お市兎が消えた森の方角に手を合わせていた。

 藤次郎は役人たちへの説明の立ち回りで、掻き消えたお市の仄かな想いなどに気付くことなどなかった。

 

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