第七章 廻天

第28話 威容の曼陀羅

(人食いだけは駄目っ)


 お市の叫びを嗤うかのように、わふっと灰王は狼達に襲撃の指示を出した。

 三頭の狼がぐったりとした山人を近くの草叢に引きずり込む処であった。悲鳴を上げる暇もなく、喉笛を嚙み破られたのだろう。

虚ろに見開かれた目には生気が無かった。手に種子島を持っている。

 少し離れた処でも弓を番えている山人が、狼たちの牙に懸かり、短い苦鳴を上げると草叢に姿を消し、沈黙した。


 灰王は満足げに遠吠えを一つ風に乗せた。

 響く声が直ぐに襲っていた狼達を呼び戻した。

 元々喰うつもりは無かったようである。

 お市は耳と鼻をヒクヒクさせ、固く成った心持ちを解きほぐしながら、様子をつぶさに観て取るべく身を乗り出した。

 藤次郎にしっかり伝えてこの後の援けを得る為である。


(茂みの中にも何人か、槍と弓を持った奴らが居るっ。どうしたらいい)


 お市は耳を左右に動かしながら、何処に居るのかもわからない藤次郎へ尋ねた。


(姉さん。躊躇はしていられない。幸いにも敵方は姉さん達には気付いていないだろうから、奇襲有るのみだ。用兵は神速を旨とす。でも気を付け――)


 お市は藤次郎の話が終わる前に、さっさと檄を飛ばした。


(皆、茂みに隠れている、武器を持ったあの人間達を逃げられない様にして。でも殺しては駄目。死なない程度に加減して欲しい)


 そう、狼の群れに語り掛けた。

 そして、


(灰王。あの男の人を助けたいの。お願いっ。頼みを聞いてくれたら、あたしは皆の病気や怪我の時、必ず助けると約束する)


 と頼み込んだ。

 答えの代わりに狼達は一声も発さず、獲物へと静かに向かった。

 灰王は茂みから、態々目立つように悠々と歩み出る。

 仲間を庇い注意を惹く。群れの頭の姿であった。


 辰吉も権蔵も、一瞬ではあるが気勢を削がれ呆気に取られた。

 通常の痩せこけた狼よりも二回りも大きい堂々とした体躯の灰色の狼が、王者の風格を持って現れたのである。

 しかも、その背には茶色い短毛で腹毛が白い野ウサギが居る。

 野ウサギがさも当然と云う様相で、大きな狼を馬の様に駆るという前代未聞の光景が、今、眼前に展開している。

 流石の辰吉も霞の権蔵も、その場にいた山人達も、これには一瞬、度肝を抜かれた。

 その隙を突いて狼の群れは、潜んでいる山人達のみ狙いすまし、情け容赦なく次々と嚙み裂いて引き倒す。

 辺りには忽ち、悲鳴と血潮の匂いが充満しはじめて、空気が変わり、灰王はじっくりとそして悠然と、辰吉と権蔵を見つめていた。

 殺気は無く油断もなく、威厳すら感じ得る姿である。

 狼達も血に狂う事無く、牙を剥く相手を殺さない様に手加減し、ひさいでいる。


 辺りを見渡した権蔵は身構えもせず、


「いけねえ。これはいけねえ」


 そう呟くと、辰吉とは真逆の方へ、全力で走り出していた。わずかな躊躇さえ見せず、逃げを打ったのである。

 霞の権蔵の危難に関する嗅覚は並外れたものがあり、凄まじい勢いで走り抜け、もう狼達の足ですら届かない。

 お市が耳を動かしながら諦めかけたその時、鴉が集団で襲いかかった。


「ええいっ、何だってんだ」


 権蔵の脚運びが遅くなった。

 そこへ、権蔵の足元を漆黒の影が矢のように過る。


「うぬっ、この畜生がぁっ」


 権蔵は罵倒しながら地へ倒れ込んだ。脹脛の肉が抉れ、血をしとどに流している。


「ぐるるるるっ」


 鬼の形相の黒丸が、牙を剥き唸り声を上げると、今度は手裏剣を握る権蔵の右手首に噛みつくとその肉を裂き骨を砕いていく。


「やっぱり……良い犬……だねぇ……」


 権蔵は痛みを噛み殺して左手に刃を持ち直し、黒丸の首筋に狙いを定め、兇刃を突き立てようと振り下ろした。

 黒丸の首に刃が突き立てられようとした刹那、ビュンという空気を切り裂く音と共に、握り拳大の石が、刃を閃かせている左手を真芯に捕え、見事に撃ち弾いた。


「それ以上動けば、命の保証はしない」


 アオの背に跨る藤次郎は放った飛礫の手応えを感じながら、二射目の飛礫を構え、大声で告げた。


 辰吉仕込みの飛礫の妙技である。

 其の姿は、実に威風堂々とした姿であり、藤次郎が普段憧れている物語の武者の様であったのだが、勿論の事、当の本人は知る由も無い。


(皆、あいつの動きを止めて。噛み殺さないで)


 お市の指示を待ち望んていたかの様に、狼達はすぐさま霞の権蔵を取り巻いて、左手に噛みつき、二の腕に噛みつき、足に噛みつきといった具合で完全にその動きを封じた。


「へっ、やられたか」


 権蔵は、噛み殺そうと殺気だっている狼達に、その身をすっかりと取り囲まれて、身動き一つ取れずにいる。


(灰王。あの男の処まで、御願い)


 お市は灰王の背に乗ったまま、霞の権蔵へ近づく。灰王はゆっくりと歩を進めていく。

 灰王が一声発すると狼達は灰王の為に、いや灰王の背にあるお市の為に道を開けた。

 墨助は「アー」と一声上げると、パタパタと嬉しそうに藤次郎の肩に泊り、それが合図だったかの様に、他の鴉達もカアカア鳴いていたのをぴたりと止めた。

 黒丸が野ウサギ姿のお市を認めて、あぱんとした表情になると、尻尾を振って駆け寄っていく。

 犬である黒丸を、狼達は追い払う事もせず、仲間の様にすんなり受け入れている。

 その全ては、一匹の野ウサギを中心にして起こっていた。まるで曼荼羅の様にすら思える。

 霞の権蔵は激痛に身を捩りながらも、目が吸い付いているかの如くじっと見ていた。

 迷信深い山人達はその威容に心底怯え切り、闘争心を無くしていた。

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