第五章 覚悟

第19話 黒丸とお市

「本当に、ここいらで、いいのかい?」


 日も暮れた岩の道をお市は黒丸を抱え、番屋の若い目明しと共に薄暗い提灯と月明かりを頼りに、屋根の有る馬の湯治場までやってきていた。

 目明しはあれやこれやと親切にお市の事を心配してくれていた。


「何度も言うようで悪ぃけどな、あんな物騒な刃傷沙汰の後だし、若ぇ女の身空で、明け方まで此処に居るってぇのはどうかと思うぞ。考え直さねえか?」


 今もすこぶる心配顔であるのだが、当のお市は、


「お気遣いを頂戴し、有難うございます。ですが、私も馬借の家の娘です。野宿夜明かしなど当たり前ですし、この子、黒丸の事も御座いますので、このまま参りたいと存じます。決して皆様にご迷惑を掛けるような真似は致しません」


 一応、丁寧にしっかりと返すのだが、何が何でもという気概を隠そうともしていない。

 先ほどの騒ぎで逃げ出した商人姿の男の一件について、本来なら番屋で色々と問答責めに会うはずだったのだが、何とか放免されていた。

 藤次郎の援護と清七の手配りで、毒粉をかけられた黒丸の治療に専念できることになったのだが、そもそもは、お市の余りの迫力に周りの大人たちが押し負けたからでもある。


「後でお叱りでもお縄でも何でも頂戴いたします。時を刻めば刻むほど、黒丸の命や躰に障りが出てしまいます。この子を治させてくださいませっ」


 この時のお市の様相と言えば、涙をはらはら零しながらも、躰から轟々と風が吹いているかの如くで、居並ぶ屈強な男達をして、


「何と。小娘かと思えば、巴御前であったか」


 と言わしめる程、中々の迫力であった。

 そこへ畳みかけるように絶妙な間で、


「手前からもお願い申し上げます。事の仔細は手前もよく見ておりました。代わりに色々申し上げますので」

 

 殊勝な雰囲気と共に、如才なく言葉を継いだ、藤次郎の得難い手助けもあればこそ、でもある。 


「辰吉さんと迎えに行くから、姉さんは周りを怖がらせないでね」


 清七や捕り方達と立ち去る際の心配そうな藤次郎の残した言葉に、周りに居た者達は皆、


「こんな時でも減らず口を叩けるとは大したものだな」


 と、妙に感心していたのだが、実は藤次郎の言葉はそのままの意味であった。


 夜を友とする獣たちの数は存外に多く、野宿をしていると、近在している獣たちがお市の近くに寄り集まってくる。

 如何やら、お市の不安をかぎつけて、皆やってくるようなのだ。

 焚火をしていてもお構いなし。

 音も立てずに来る獣も多く、気が付いたらそうそうたる数に囲まれているというようなことが一度や二度ではない。

 辰吉や藤次郎は最早慣れっこではあるのだが、見知らぬものにとってはただの物の怪でしかないだろう。

 藤次郎は其のことを懸念しているのだった。

 どんな時でも、いや、こんな時だからこそ、お市の力にまつわる不思議は伏せられるように心を砕かなければと、苦労性の弟は姉の事を心配していた。


 そんな心配をされているお市は、若い親切な目明しの道案内で、月明かりで薄っすらと浮かび上がる白い湯気に、むっとする熱気が漂う河原の湯治場に居た。

 湧き出した湯が川の水と混ざり、熱さも程よく加減が出来るので、怪我をした馬や牛にはもってこいの湯治場である。

 申し訳程度の屋根と柱で、東屋とすら呼べない代物ではあるのだが、夜露も十分にしのげそうだ。


「親分さん。御親切にありがとうございました。家の者も直に……」


「その犬くらいなら、其処の脇の岩棚あたりが丁度いいだろう。傷にはしみるかもしれねえがな。二間左隣には薪小屋もある。お前さんくらいなら身は隠せるから、憶えとくと良いさ」


 お市の言葉に態々、己の言葉をかぶせ、何も尋ねる気はないぞと不器用に示した目明しは、慣れた手つきで提灯を柱に据えると、一抱えもある薪を持ってきて、さっと火を起こした。


「直ぐに色々始めてぇだろうから、俺はもう行くが、よくよく気ィつけてな。それと、俺は親分じゃねぇ。ただの下っ引きだぞ。まだな」


「ありがとう。本当にありがとうございます。先の親分さん」

 

 切々と礼を言うお市に照れたかのように、若い目明しは足早に宵闇に姿を消した。

 お市は「くぅーんくぅーん」と哭いている黒丸を抱えたまま、共に湯につかり、優しくお湯を顔に鼻にかけて、指先で丁寧に毛先まで揉み解していく。


「あたしが付いているわ。黒丸。大丈夫よ。治るまで片時だって離れない。だからしっかり治してね」


 匂いを抑えた薬草を詰めて縛り上げた手拭を湯に浸して、黒丸の顔を撫でる。

 お市の涙目ながらも、黒丸に注がれるその視線は、怒れる神をも宥められるような美しさであった。

 月明かりに映える湯気の所為なのか、或いは月影の煌めきなのかはわからないが、お市の躰から白い光が立ち昇り、黒丸へと降り注いでいた。

 黒丸の哭き声はだんだんと小さくなり、湯の中に居るにもかかわらず、やがて寝息へと変わっていった。


「少しは楽になったのかしら。焦らなくていいからね」


 近くの茂みでは、ガサゴソガサゴソと穏やかな獣たちの足音が、お市達に遠慮がちに響いている。

 刃傷沙汰のあった血生臭い夜だとは思えない程、穏やかな月夜であった。

 








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