第18話 的と標

 霞の権蔵は驚いていた。

 猫の声のした方へ視線を投げて見たら、小娘と小僧に眼が合ったのだが、小娘が何処をどうしたのか、自分の正体を見破ったのだ。

 生まれてこの方ずっと闇の世界に生きて、色々な事を見て聴いてきた。

 そんな中、稀に本物の不思議に合う。これもそんなものなのだろう。

 面白い。

 ただ、相手が何であれ、障りになるものは片付ける。それがどんな不思議なものでもだ。

 しかも、たかが餓鬼二人である。始末は然程に難しくもない。


 両刃にトリカブトの毒をたっぷりと塗り込んだしころを、袖の中で握りしめ、にこやかな表情で霞の権蔵は足早に歩き始めた。

 小娘の耳障りな高い声が周りの人々の耳目を集め始めたが、捕り方連中が駆けつけてくる前に始末することに何の問題も無い。


 商人の男の仮面を捨てた、霞の権蔵は足早になった。足音を立てず、実に早い猫足である。


「がるるるる」


 お市に近付こうとする嫌な気配を発する人間に、黒丸は敵意を剥き出しにした。

 お市に害を加えようとする者には、欠片も容赦する気はなく、その肉を噛み裂くために牙を剥いた。


 霞の権蔵は、小娘の足元に居る黒い犬が、その身体中から放つ殺気に感心しつつ、


「良い犬だ。勘弁しておくれよ」


 お手玉を先に卵を後に、瞬きする程ほんの僅かにずらして、鼻先へと放り投げた。

 飛んでくるお手玉を難なく避けた黒丸だが、その陰から飛んで来る卵は避けられず、前足にぶつかった。

 割れた卵からは、猛烈な臭気を放つ茶色く細かい粉が飛散して、黒丸は苦鳴をあげた。


「黒丸ッ」


 お市が視線を落とした。


 その隙で充分。

 仕留めるのは先ずは小娘でいい。

 しころを構えて手裏剣替わりに放とうとしたその時である。

 しゃあぁあっ。

 怒りたつ猫の声が聴こえたかと思うと、いつの間にやらキジトラ猫が、権蔵の顔目がけ身を躍らせていた。

 咄嗟に避けたものの、完全に避けきれず、手の甲を深深と引っ掛かれ、しころを取り落とした。


「うぬっ」


 体を立て直した処に、捕り方達が詰め寄って寄って来るのを認めた。


「しくじったかい」


 視線の先に居る燃える様な眼をした猫も珍しいが、覚悟を決めた様相の高く売れそうな小僧と、怯え等全くなく強い意志の光を灯した目を向けてくる小娘に、権蔵は驚きどころか感動すら覚えていた。


「凄いねえ。こんな子供達は見たことが無い。俺としたことが、見とれて感心しちまうとは。こいつはいけねえ。お前さん方はいけねえな。安兵衛なんかより、もっといけねえ。必ず始末はつけるぜ」


 男がお市に言い放ち、大きくトンボをきって岩の上にするすると攀じ登り、猿の様に走り去るのを藤次郎はしっかりと見ていた。

 其の顔、その身丈、姿形。その全てを見逃すまいと頭に深く叩き込んた。

 何処でどのような姿をしていようと、見落とすことは無い様に深く頭に叩き込んだ。藤次郎の得意とする早覚えである。


 お市に聴くまでも無い。

 あいつが敵の頭領だ。あいつを逃がすわけにはいかない。

 しかし、藤次郎は後を追いかける捕り方達を見送りつつ、竹筒の水をお市に手渡し、手桶を片手に近くの井戸へ走り込んでいた。

 救える命は救う。その矜持は如何なる時でも迷う事は無い。

 今は黒丸の大事である。

 お市は涙目になりながらも、懸命に声を掛け続け、


「黒丸っ、何とかするからっ」


 持っていた手拭で、黒丸の舌と口の中を拭う。

 苦しむ黒丸の牙がお市の柔肌を破り赤い血潮が滴ったが、声を上げるどころか顔すらしかめる事無く、抱えて上げると近くの畑へと駆け込んだ。

 竹筒の水を柔らかい土に振り掛け、その土を黒丸の頭に顔になすりつけて落とし、を繰り返しながら、


「藤次郎っ。水を早くっ。お願いだから水を早くっ」


 と叫んでいた。

 近くにやって来た捕り方が声をかける事を辞めてしまう程、その迫力たるや鬼気迫るものがある。

 藤次郎は釣瓶で水を汲み上げながらも、頭の中は目まぐるしく動いていた。


 何故、姉さんはあの男が首魁だと気付いたのか。

 不思議の中に、何かわからない神通力でも芽生えたのだろうか。

 キジトラ猫はいつの間にか姿が視えなくなっていたが、あの姿形は山吹と瓜二つだった。では、どうやってこんなに離れた山奥まで来れたのだろう。

 もしかして、山吹も普通の猫では無いのではないか。

 合点を追い求めるがあまりに、馬鹿馬鹿しい考え方になっていく自分の考えを、藤次郎は頭の中から追い出して、黒丸の為の桶水を持って走っていた。



「姐さん。姐さん」


 小春の姉貴分に当たる白粉女は、呼び止められて振り返った。

 其処には小春が付いていたあの羽振りの良さそうな商人の男がいた。


「あら、お兄さん。急にいなくなるから、小春が心配してたよ」

「へ、済まねえなあ。刃傷沙汰は嫌いなんだよ。金は置いといたが、大丈夫だったかい」


 心配そうな表情の商人の男の手に、猫のひっかき傷がある。


「大丈夫かい」

「何、これこそ只のひっかき傷だ。ヨモギでも擦り込んでおけば十分だよ。其れよりさ」


 霞の権蔵は商人の男の顔で腕組をした。


「実は、大事な用を思い出したから、このまま発つ事にしたんだよ。それででな、小春さんの知り合いの綺麗な女将御一行、皆さんにも宜しく伝えてくれ。ええと何て言ったっけ。あの可愛らしい女の子と吃驚するくらい男前の坊が居なさる……」

「ああ。あの子達は、湯守り様預りの御一行だよ。清七さんって言う、纏め役が面倒見ているらしいよ。何でも別の宿場の馬借らしいけど、アンタみたいな商人は、やっぱり世話になるのかい」


 霞の権蔵はとても良い笑顔を満面に浮かべて、にこやかにいった。


「そりゃあ、もう。たっぷりと礼を尽しても、し足りない程さ。助かったよ。名前を度忘れしちまってねえ。細やかながらほら」


 権蔵が巾着から小銭を取り出そうとして、板銀とビタ銭が数枚転がり落ちた。

 白粉女が小銭を拾い集め、顔を上げた時にはもう誰も居ない。

 商人の男ー霞の権蔵はいなくなっていた。

 首を竦めて宿に入ると、独楽ねずみのように動き回っている小春を見かけて、態々駆け寄った。 

 そして、何かを言おうとしたのだが、懐手にある拾った銭の事を御思い出し、


「しっかり働きなよ。小春」


 と迷惑千万のような勢いで言い放つと、奥へ吸い込まれるように消えていった。

 小春はひと息つくと表に出て辺りを見回した。

 特に何があるという訳では無いし、何かしたいという事でも無い。

 ただ、酷く厭な予感がして、胸騒ぎが止まらないのだ。


「悪いことがこれ以上起きませんように」


 空にはっきりと輝き始めた月に向って、細やかな願いを載せて手を合わせ、ぺこりと頭を下げた。

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