おっさんが人生を取り戻す話

@yoruwo

第1話

 きゅうりをスライサーで薄くカットして、塩を振ってボウルの中で軽く揉む。


 その間にコンロにかけた鍋の水が沸騰したので鶏むね肉を放り込む。


 茹であがった肉を冷水で冷やし、細かく裂いて、蛍光グリーン色のペラペラのまな板の上に積み上げてゆく。


 狭いキッチンにはただ雨粒が屋根をたたく音と、男が料理する生活音とが控えめに流れていた。


 男の名前は吉田孝二(よしだ こうじ)、38歳の独身無職。仕事を辞めて半年になる。


 孝二は貯金を切り崩して生活していたが、それも心もとなくなってきたため、何とか食費だけでも浮かそうとして自炊をはじめた。

 

 キッチンの窓を少し開けると、網戸越しに生暖かく湿った空気が忍び込み、孝二の頬をさすった。梅雨の季節である。外を車が一台通り抜けた。


 孝二は手元に視線を戻すと、ボウルの中で鮮やかな緑色になったきゅうりをよく絞った。思った以上に水分が出た。


 冷蔵庫からパックの中華クラゲを取り出し、ボウルの中にあけてきゅうりとよく和え、最後に裂いたむね肉を加えて混ぜ合わせた。中華クラゲの鶏肉和えの完成だ。


 孝二は棚からグラスを一つ取り出すと、完成した料理の入ったボウルを持って居間兼寝室に移動した。移動と言っても10歩にも満たない距離だが。


 テーブルに料理をセッティングして、焼酎をグラスの半分まで注ぐ。焼酎は大容量ペットボトルに入った格安のものだが、貧乏なので文句は言えない。しかし炭酸水で割ると案外イケる味になった。孝二は淡々とした表情でグラスをかたむけ、料理を口に運んだ。


 孝二は辞めたい辞めたいと思っているのだが、アルコールを摂取すると無性にタバコが吸いたくなった。そこで仕方なく、日に10本までと決めているタバコに火を点け、肺にニコチンを送り込んだ。健康面での影響も気になるが、貧乏人の孝二にとって、タバコ代は重荷だった。


 まだ昼下がりではあったが、肴を作って酒を飲むのが、孝二の唯一の愉しみだった。


 テーブル上のノートPCのモニターには無料動画サイトの映像が映っている。


 今日の肴はこのサイトで見て真似したものだ。マウスに手を伸ばしてクリックすると、白い三角が浮かび上がり、映像が動きだした。


 それをガラス玉のような目で追っていると雨脚が強くなった。


 雨音が激しくなると途端に音声が聞き取りづらくなった。隣室から苦情がくることを恐れ、動画の音量を絞っていたからだ。


 イヤホンをつけようとも思ったが、孝二は有線の物しか持っていなかったし、酒を飲んでくつろいでいる時に頭の動きを制限されたくなかった。


 動画視聴を諦めた孝二は、あぐらをかいたまま敷きっぱなしの布団に後ろから倒れ込むと、放心したように天井を見つめた。


 激しい雨音を聞いていると、普段押し殺している将来への不安が脳裏に渦巻いてくる。こんな無職生活が長く続くはずがなかった。


(また仕事を探さないといけないのか、憂鬱だなぁ。宝くじでもなんでもいいから当たんないかな、買ってないけど)


 しばらく難しい顔をして天井を睨みつけていた孝二だったが、しばらくすると悩み疲れていびきをかいて眠ってしまった。

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