day -12:ビブの日

一週間と五日前。


 この学校に美術部なんてモノは、もはや存在しない。

 昔は在ったらしいのだが、僕らの学年が入学した頃には既に、漫画研究部の実践派達と合併した後だった。所属したことは無いから詳しくは知らないが、少なくともこの高校の漫画研究部には、大きく分けて二つのタイプが居たらしい。つまり、観賞専門派と、実践専門派。漫画やアニメを観賞してそれに関しての議論を楽しむ奴らと、自分で漫画を描いてみたい奴らという事だ。当然前者の方が割合は大きく、実践派は肩身の狭い思いをしていたわけで……時流に乗っ取って廃部寸前だった美術部の人間と相談の末、共に新しい部活を立ち上げようとなったわけだ。

 そんなこんなで、観賞専門の奴等は漫画研究部に、絵を描く奴等はまとめて描画部(そんな名前だったはずだ)に、所属する事となった。美術部という名前は立ち消えたのである。

 消えた。

 立ち消えた、はずなのに、美術部所属を名乗る人間が今この学校に、二名ほど居る。

 そのうち一名はあまり乗り気ではなく、ただ単に周囲そういわれているだけで、自分から美術部員である事を主張したことなどほとんどないのだが、学校という閉鎖空間に於いての変わり者は自然と目立ってしまうもので、なんというか、まぁ、仕方がない話だ。要するに、一人は僕である。

 ところで今日は土曜日で、その美術部の活動日となっている日である。土曜の授業は四限まで、つまり午前授業なので、午後は部活の闊歩する遊歩道たる有様だ。食堂で昼食を食べ終え、僕は美術室へと向かった。

 予想通りそこには既に一人の生徒が居たので、挨拶をする。

 挨拶くらいは当然のようにこなす、模範的な人間関係だ。

「おはろ」

「♪♪♪、♪」

 鼻歌が返って来た。無視かよ。

 伴奏を終えて、そのまま歌詞に入る。

「ピカーソダケリ、トービデボン♪ アダーマノナカ、プーワプカリン♪ ギ・ク・シャ・ク・ホ・ダ・ラ! ケセラーセラヴィ、ビビデボン♪」

「…………」

 しかもすげぇ歌歌ってやがる。明らかにマイナー嗜好なチョイスだ。

 コイツは口を動かしながらの方が作業に集中できるタイプのようで、部活動の最中、始めから終わりまでずっと喋っている事もざらにある。一人で賑やかな奴なのだ。

 毬雲雛鳴(まりぐも ひなな)。

 二年E組の変わり者。というより、学年全体で……もしかしたら学校全体ですら、一位二位を争うほどの、変人だ。二つ名すらある。『ブービー・ヒナナ』。因みに、卯生は『ななちゃん』と呼んでいる。卯生は顔の広い良い奴なので、変人の毬雲とも分け隔てなく接しているのだ。

 そして、現在の美術部創始者こそが、毬雲雛鳴だ。

 美術部が無いはずの学校で「私は美術部だ」と豪語し、正式な手続きすら済ませず、ごり押しのように放課後の美術室を借りている。そもそも、部活には五人以上の部員と顧問の先生が必要なのに、だ。『幽霊部員』ならぬ、『幽霊部』たる由縁である。

『ブービー・ヒナナ』。

 成績が常に最下位だからというわけではなく(しかし、最後尾群の中にはいるらしい)、美術部を略してビブ、さらに逆さにしてブービーというわけだ。それと一年の最初の中間試験で、(進学校にはあるまじき事に)数学で見事十七点を取った事も関係している。名前と見事に合致する点数もさることながら、毬雲は解答用紙に絵を描いて提出した事が大きい。端っこの落書きなどではない、大きな絵を。まるで解答の方がついでであると言わんばかりに。

 まるで、学校の授業の方がついでであると、言わんばかりに。

 しかもその絵が、舌を巻くほど上手な絵だったのだというから、性質が悪い。先生も対応に困ったろうし、生徒たちの間では噂になった。噂の的になった彼女は、当然のように一言、「だって私、ビブだもン」と対応した。これがまた非日常を求める生徒たちに受けたのだろう、噂はさらに熱を帯び、結局あの酔狂な二つ名に落ち着いた。

 紛う事なく、変な奴だ。

「……ビンブルパペ・ピポ、プペポピー! おはろー」

 一曲歌い終えて、やっと挨拶を返してきた。

 っていうか歌詞、丸暗記してるんだな。

「おはろ……」

 返事に返事をするのはおかしいかもしれないが、なんとなくそう応じてしまった。

 毬雲はそんな僕に構う事なく、カンバスに筆を振るっている。今日使っているのは、アクリル絵の具(水彩絵の具のようなもの)のようだ。絵に関してはオールマイティらしく、鉛筆も色鉛筆も、ミリペンもコンテも、水彩画も油絵も、たまにペンキまで使って、好きなように絵を描く。

 僕も自分の絵を描くべく、用意を始める。

 毬雲が一曲歌っている間に荷物は片付けていたので、道具を出す。旧美術部室をそのまま、現在の幽霊美術部は使わせてもらっている。あらかたの備品は描画部に持っていかれているし、部費で何か買おうにもそもそもの部費が無いので、置いてあるのはあまり物と僕らの私物だけ。幽霊美術部は毬雲の妄言なので、予算が下りるはずがないのだ。それでも物置として使わせてくれるだけ、先生方はおやさしいのだろう。

 適当に席を決め、バケツに水を汲む。

 毬雲と違い、僕は基本的に水彩画くらいしか描かない。水彩画というと聞こえが良いが、要は小学校やら中学校やらで使った絵の具の残りを、そのまま使い潰しているだけだ。道具だってそうである。擦れてはいるが、平仮名できちんと『みずとききせき』とバケツに書いてあるのだ。流石におおっぴらに持ち歩くのは恥ずかしいので、バッグは買い直したが。

 席に着き、紙を広げた所で。

「軌跡くンは、食堂で昼食を食べてきたンです?」

 カンバスの向こう側から、顔の見えない毬雲が話し掛けてきた。

 相変わらず、『ん』の発音が特徴的だ。舌足らずなちっちゃい子みたいな。

「ん? ああ」

 正しい……というか、一般的な発音で応じる。

「混ンでたでしょう」

「まぁ、混んでいるといえば混んでいたが……食堂を昼に利用しようとするのなら、あんなものだろう。大体の生徒は昼にしか利用しないんだから、しょうがないさ。土曜だし、普段よりは空いてたかな」

「ふーン」

 筆を取り出し、バケツの水へ浸す。パレットに赤絵の具を出し、ちゃかちゃかとそれを溶き、また水に筆を浸した。じわり、と、赤が広がる。

 ああ――そういえば、リストカットは痛いとか聞いた事があるな。

 痛みというのは厄介だ。痛みそのものは別にしても、それは途中で自殺を断念する理由に、大きく繋がる。つまり、確実性が揺らぐのだ。……どうだろう、酒でも飲んである程度朦朧としていれば、大丈夫か?

 というか、自殺のことを考えていること自体が、大丈夫かって感じだが。

「……ま、どちらにしろカッコ悪いか」

「何か言ったー?」

「いや、なんも」

「何か言いましたよー。何かな、何かな」

「えーと……、毬雲さんはきちんとお昼食べましたか?」

 話題をでっち上げてみた。中途半端な敬語は、毬雲直伝だ。

「えっとー、ンとねー。食べ」

「…………、?」

「ましたよー」

 途中で切るな。

「チョコラスクを食べました。あと、カフェオーレ。おいしかったよ」

「ラスクっていうと、小さい食パンみたいな菓子パンか。クッキーみたいな」

「うン。ひとパック七十円で、三枚も入っててお得ですー。カフェオーレも、500mlが九十円で、たっぷりです」

「合わせてなんと百六十円!」

「今なら軌跡くンストラップもついてきちゃう!」

「ゴミつけてどうするんだよ」

「今なら雛鳴ちゃンストラップもつい」

「ゴミつけてどうするんだよ」

 途中で切った。

「……て、こない!」

 めげない子だった。

 まぁ、コイツの場合……加減がわからないんだよな。楽しそうに笑っていたかと思うと、よくわからないラインを超えた途端、泣き始める。同じ年齢か疑わしい。背も小さいしな。150cmには、確実に到達していないだろう。笑っているうちにギャグを終らせるのが、一番良い。

「お金ないなら貸すぜ。それともダイエット中?」

「ううン。ダイジェスト中」

「消化中か……わかりづらいな」

「朝ご飯がしっかりしてたから、お腹空いてないンです」

「ああ、そう」

 適当に会話を進めながら、赤い線が散在した紙に、新たに赤く線を引く。他の色がそろそろ欲しくなってきた所だ。

 筆を水の中に浸して――ぷくんと泡が立つ――ふと思いつく。そうだ、溺死系についてあまり考えていなかったな。風呂は安直……川に飛び込んだらどうだろう? 見つかるとまずいか……というか、どうせ飛び込むのなら綺麗な川がいいが、綺麗な川が思い至らない……あまり生活圏から離れてしまうのも、『日常の中の死』を演出できなくて、嫌だしな。

 そう、案外重要なポイントだ。

 あまりに生活圏から離れた所で自殺してしまうと、それはただの人間の死になってしまいかねない。水梳軌跡ではなく、別の人間が死んでしまった気になるのだ。水梳軌跡は死んだのではなく、どこか遠い場所へ隠遁してしまったかのように、映るだろう。

 山の中入ってリフレッシュしちゃって自殺する気を失っちゃっても、初志貫徹ならずだしな。一度始めたことはきちんと最後までやれと、誰もが言うのだ。

 大体、卯生を巻き込んでしまった(向こうから飛び込んできた感もあるが)時点で、一抜けたは許されないだろう。何より自分が許さない。そのオチは、あまりに詰まらないからね。

「出来た!」

「お」

 などと考えている内に、毬雲が絵を描き終えたらしい。

 ブービーヒナナこと毬雲雛鳴について特筆すべきなのは、使う画材の幅広さではなく、その描画速度だ。テスト中の落書き伝説からも、それがわかる。口を動かしながら、手も動かす。雑だったり、所作がスピーディなのではない。

 描画中、彼女は悩まないのだ。

 およそ万人が絵を描く時に、誰もが時間を取るであろう――「どんな構図にしようか?」「どんなものを描き込もうか?」「どんな色を使おうか?」または「やってみたら思ったほど良くない」――という悩み、思考時間。毬雲は、それがほとんどないのだ。ゼロに近い。確定的、確信的に、筆を運び、線を引き、色を塗る。そして描き直さず、不必要な重ね塗りはしない。

 初めから、彼女の頭の中に明確すぎるイメージ、ビジョンが在るのだろうと、僕は思う。

 使用する画材の幅が広いのは、それを表現するのに適当なものを使っているだけなのだ。

「見て見て、軌跡くン」

「おお」

 がたん、と席を立って、毬雲の絵が見えるところへ移動する。

 毬雲の脳内に明確な絵が最初から在るのだろう、と予測する理由が、もう一つある。他人が描いている絵についてやたら口出しするのだ。「ここは黄色ですよ!」「ううン、もう少し下だね」「そこから左端まで、弧を描くようにラインを」云々……。他人の絵を見ながら、止まることなく途惑うことなく、明確な指示――もはや命令であるかのように、口出ししてくるのだ。

 はっきりいって言うまでもなく、うざい。

 だから、彼女と同じ空間で絵を描く時は、毬雲の目に自分の絵が入らないよう、離れて描くのだ。

「見て見て」

「見る見る」

 楽しそうに絵を示す毬雲の後ろから、絵を覗きこむ。

 なんというか、どこかで見たような、よくある感じの絵だった。

 淡く藍色から黒へのグラデーション。満天の星空。きらめく水面に、同心円を描く波紋。今にも飛び立ちそうな、翼のある白馬――いわゆるペガサスだ。ペガサスに角があったりするが、ユニコーンとの配合種だろうか、これは。しかしそれにしても、あれだ。

「少女漫画っぽいでしょう」

「うん、ぽいな」

「ンへへー」

 垂れ目を細め、長いストレートの髪を揺らして……けれど、ちょっと意地悪そうに笑う。頼んでもいないのに、毬雲は解説を始めた。いつものことだ。

「星空は希望を示しているンですね。水面は自分を映す鏡。そこから今、まさに飛び立つ――つまり乖離しようとしてるのが、お馬さン」

「馬ねぇ……馬っていうのは?」

「馬っていうのは、人が背中に乗るためのものでしょ。ここに」

 毬雲は、馬の背中の辺りを示す。

「自分が乗るンです。角と白は純潔の証、翼は夢へ飛び立つためのもの。要するに――現実の自分から離れて、希望溢れる夢の世界へ連れてって下さいっていう、絵なンだね」

「なんか幼稚だな」

「幼稚だよ」

「夢みる乙女ってか」

「少女漫画だもン」

 実際、現実逃避といわんばかりのイメージだ。こういう絵が好きだって人たちは、それを自覚して描いたり、読んだりしているんだろうか? 気付いていても、気付いていなくても、ある程度の年齢を超えていたら、それは、なんだか心寒いお話だ。

 ところで、毬雲がそんなタイプかというと、そうでもない。少なくとも僕の印象では。

 なので訊いてみた。

「でも、毬雲らしくない絵だよね」

「ン。で、私はこれなのです」

 指差した所には、月が描いてあった。

 よく見ると、変な月だ。三日月――この絵に月を描くのなら、満月じゃないか?――それも、下向きに弧を描いている、上弦の三日月だ。高い位置にあるくせに。

 ああ、と僕は言った。

「笑ってるのか」

「うン。そんな光景を、高い位置から嘲笑ってるのが私。別に私じゃなくてもいいンだけどね、少なくとも『こンな絵』――思想を、嘲笑ってる奴が確かにいるンだよ、ということです」

「成る程ね」

 そう。

 ちまっこい容姿に反して、コイツの腹の内は結構えげつないのだ。捻くれている、というか。可愛らしく、勉強も運動も出来ず、庇護欲を誘われそうな奴なのに……、今一つ好かれる事が少ないのは、そんな理由がある。

「しかし、それを差し引いても」

「どれ?」

 無視。

「上手い絵だな。はっきりいって、僕はプロと見分けがつかないよ。美術の世界にはプロが幅広く存在するから、どれと比べるんだって感じだが……まぁ、そこらのイラストレーターよりは上手いと思うぜ」

「ふーン」

「美大にでも行ったらどうだ?」

「い」

 口をそのままにして、毬雲は黙ってしまった。

 ぶっちゃけた話勉強にもろくすっぽ興味がなさそうで、絵ばっかかいてるコイツは、そっちの方面へ進むんだろうと僕は漠然と思っていた。毬雲を知る他の人間もそうだろう。昨日の話ではないが、突然殺されたり、あるいはまさかの自殺をしない限り、毬雲の将来は美術方面だ。実力については問題ないはずだし。

 さて。

 絵も観賞し終わったことだし、解説文も聞いた。毬雲はカンバスを持って部室へ行ってしまった(多分乾かしに)ので、僕は席に戻った。

 絵の続きに取りかかる。僕は口を動かさなくても、筆を動かすことができるのだ。淡々と塗る。

 道に例えた人生だが、絵に例える事も出来るだろう。僕らは『自分』という絵を描き続けているわけだ。与えられた道具は人によって違い、カンバスの広ささえ人によって違う。新たに道具を仕入れることも可能だが、それには労力が伴う。何にせよ、大抵の人間はその白紙へ特に意図も込めず、構図に悩んだり色に悩んだりしながら、休むことなく筆を滑らせ続けるのだ。思考→水→絵の具→紙→思考……の、ルーチンワーク、ライフサイクル。かくして、その人間が死んだ時に絵は完成する。

 完成する、のだ。させるのではない。絵を描くことに終わりはない。

 実際のどんな絵も、終わることはない。満足が行った所で筆を置くだけで、その後も描き足されたりアレンジされたりと、何かしら手を加える余地が残されている。それはあらゆる芸術活動においていえること、だろうけれど。毬雲のように『出来た』と確信をもって宣言できる絵は、案外稀有なものかもしれない。

 ここでまた、自殺について考えてみるのなら――僕の表現した、『絵に描いたように』という比喩がまた面白い。ある種の満足が行った所で、自ら筆を置き、絵を完成したことにするのだ。それ以上自分が余計なものを描き足さないうちに、終わらせておくのだ。まぁ、いくら完成させたところで、他人は他人の死を飾るのが好きだし得意なわけで……結局世に出る頃には、生き残った人間たちが死人のカンバスへ色々描き込み、適度に適当な具合に『自分』は彩られているのだろう。

 ん……?

 ちょっと違和感――あるいは発想の欠片を掴んだ気がして、僕は筆を休めた。宙を見つめ、何が引っかかったのかを探る――と。

「かないよ」

「……あ?」

 毬雲が戻ってきていた。

 新しいカンバスを持ち出してきて、それを設置している。まだ描くのか……飽きない奴だな。

 かないよってなんだ。

「いかないよ」

「……ああ。長い間を空けたもんだな……。僕なんかその時間で、人生観を一つ習得しちゃったくらいだよ。――って、ええ?」

 美大に行くんじゃないのか。

「フツーの大学へ行きますよ、私は」

「そうなんだ。絵は生業にしないのか。てっきりそうするもんだと、僕は思ってたけれど」

「なりわいって、何?」

「おシゴトって意味」

 つーか、高校二年……しかも紛いなりにも進学校の高二やってんだから、このくらいの言葉の意味は知っておけよ。そ知らぬ顔で、早速絵の具を溶き始めてるしな……コイツ、確か使う絵の具の量も、最初から確信的に決めてやがるんだよ。それだけの才能をもって、何故それを使おうとしない。

「おシゴトにはしませンよ。だって仕事にしちゃったら、真面目にやらなきゃいけないでしょう」

「真面目に描いてるわけじゃないのか」

「真面目には描いてないよ。素朴に単純に描いてるだけです」

「ふーん……。それじゃ、何になるんだ?」

「わかンない。カウンセラーとか面白そうです、ですー」

 お前には無理だ。

「お前には無理だ」

「口に出さなくてもいいじゃないですかぁ。ンン、わかンないけど、絵の方はお小遣い稼ぎ止まりだね」

「そっか」

 えらくまた、確実そうにそう言ってのける。まぁ、趣味は趣味、仕事は仕事、か。そういう考え方も、いいかもしれない。きっと毬雲のことだ。そのうちどこかで悟ったように、自分の仕事も決定するのだろう。

 将来のビジョンなんて話なら、僕の方がよほど不安かもしれない。自殺しようとしているんだからね、かっこ笑い。

「そうなんですーですーですですー」

「なんだよ」

「ですですいえば、さっき卯生ちゃンが来ましたよ」

「なん……ん? 卯生が?」

 もしかして自殺プランのことを毬雲に話しに来たのか今日は告げないって言ってたじゃねぇか、と、少し焦った。けれど。ちょっと冷静になってみれば、それにしては毬雲の様子はいつも通りなので、そうではなかったのだろう。

「うン。お昼の時間帯に、美術室をちらって覗いて、ヴィーとやってったのです」

「ヴィー?」

「ヴィー」

 毬雲はカンバスの影から右手を出して、筆を持ったままブイサインを作って見せる。

「……それだけ?」

「それだけー。軌跡くンは居ないよって言ったら、あ。軌跡くンは居ませんよって言っ……いましたら、別にアイツに用があったわけじゃありま……あったわけじゃないよって、ご退場なさいました」

「その変な敬語をやめろ」

「ンへへへー」

 笑ってんじゃねぇよ、変人。妙に中途半端な奴め。狙ってんのか?

 しかし、あまり突っ込んでも仕方がない。卯生はただ単に、暇だから覗きに来ただけなのだろう。ややこしいことをする奴だな……不必要に気を強張らせてしまった。

 そんなこんなで。

 この日は、他愛もなく毬雲と雑談をしながら絵を描いて、終った。


 発想の欠片は、行方不明のままだった。

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