第44話

 午前九時半。

 真夏とは言え、朝方なのでまだ涼しくて過ごしやすい。


 文芸部の部室に到着した俺は、机の上に荷物を置いてから大きく伸びをする。

 小夜子はまだ来ていない。

 一人だけの空間で、俺はノートパソコンを開いた。


「自分の文章って、冷静に読み返すと変な感じなんだな……」


 パソコンの画面に映し出されていたのは、自作の小説だ。

 昨夜、俺は小説の冒頭を書いてみた。


 夜の間はなかなか良い出来だと思っていたのだが、冷静に読み返すと妙な違和感を覚える。

 深夜に痛いポエムを書いた中学生が朝になって我に返り、羞恥心に悶えているときのような気持ちだ。


「おはようございまーす。先輩、今日は早いですねー」


 俺がむずがゆい思いをしているところに、目を丸くした小夜子が入ってきた。

 いつもは彼女の方が先に部室に来るので、俺が先に到着していたのが意外だったのだろう。


「それ、もしかして小説ですか?」

「うん。昨日の夜に書いてみた」

「へえー、読ませてくださいっ!」


 小夜子は飛び跳ねるようにして俺のそばに来ると、パソコンの画面を覗いた。

 自作の文章を読まれるのは初めてのことで、すごく恥ずかしい。

 俺は頭をかきながら、あさっての方向を向いた。


「なになに……太郎は文芸部二年生。ライトノベルが大好きで、いつも部室では本を読んで過ごしている」

「音読するのかよ、恥ずかしいな」

「もう一人の部員は花子。太郎より一つ年下の一年生だ。彼女は背が低い。そして本を全く読まない」

「やっぱ俺の文章って下手かな? 変なところがあったら指摘してくれよ?」

「いや、下手というか……それ以前に……」

「ん?」

「太郎とか花子って誰ですか?」

「俺の小説の登場人物に決まってるだろ」

「もうちょっとマシな名前考えてくださいよ! ネーミングセンスがゼロじゃないですか!」


 小夜子が叫ぶ。

 ……えっ? 太郎と花子ってそんなにダメかな?


「太郎も花子も良い名前ですけど、ちょっと普通すぎますし……もう少し捻った方がいいと思いますよ」

「普通の名前っていいじゃん! ああ……俺も普通の名前なら良かったのになあ……」

「落ち込まないでください! 太陽って名前、私は好きですから」

「ははは……慰めてくれてありがとう」

「それに太陽という名前は、今時珍しくないですよ。先輩の暗い性格に絶望的に似合っていないだけで、名前自体は良いものです!」

「慰めるフリをして俺の性格をディスるなよ」

「とにかく、太郎と花子はやめましょう」


 小夜子は腕組みをしながら言った。

 彼女が俺の性格をディスっている件は、まあ一旦置いておくとして……。

 確かに、太郎と花子というネーミングはやめた方がいいのかもしれない。

 言われてみれば安易すぎる名前である。 

 太郎という主人公も花子というヒロインも、ライトノベルにおいては見たことがない。


「名前を変更か……でも、どういう名前にしよう」

「簡単ですよ! この主人公は先輩がモデルと言っていいほどそっくりですから……」

「ほうほう」

「そのまま、太陽という名前にしましょう!」

「いや、無理無理無理! 主人公を自分の名前にして小説を書くなんて、さすがにイタすぎるって!」


 俺は全力で首を横に振った。

 そんな俺の様子を見て、小夜子は「はぁー」とため息をつく。


「恥が捨てきれていないんですねー。主人公が太陽、後輩が小夜子でいいじゃないですか」

「えっ……後輩キャラも小夜子の名前そのままなの?」

「当然でしょう? 私がモデルみたいなキャラなんですから」

「ええー……」

「そして太陽と小夜子が結ばれ、付き合うという結末を先輩が書んですよ?」

「やめて! 恥ずかしすぎる!」

「太陽は小夜子のことが好きなんですよ? だから告白するんです。いいですか、太陽は小夜子のことが好きなんです。太陽は小夜子が好き……」

「なんか洗脳されてるみたいで怖いんだけど!」


 後輩の目があまりに真剣だったので、俺は少し引いた。


「せめて、俺たちの名前をそのまま出すのは勘弁してくれよ」

「じゃあ、陽太」

「えっ?」

「主人公は陽太(ヨウタ)です。で、ヒロインは小夜(サヨ)にしましょう」

「ほとんど俺たちの名前と変わっていないけど……」

「いいんです! 小説の登場人物と私たちは別人で、ただ名前が似ているだけです」

「お、おう……」

「だから遠慮なく陽太と小夜のラブストーリーを書くのです。先輩と後輩は付き合う、先輩と後輩は付き合う……」

「分かったからその洗脳っぽい言い方やめてくれ! 目も怖いから!」


 俺は訴えるようにして叫んだ。


 こうして、小説の登場人物の名前は陽太と小夜に変更された。

 ……なんだか後輩に丸め込まれた気もするが、まあ、いいとしよう。

 ともかく、俺の小説執筆はほんの少しだけ前進したのだった。

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