第十三話 認知②

 遺言ともとれるウカの手紙を読み、程なくして暮は蜜にウカのことを訪ねた。しかし蜜は、父の仕事については何一つ詳細を知らなかった。イツボの話や百籠に対する見解も、一切聞いていない。これらのことは全て、暮だけに託されていたようだ。

 その理由はまだ暮には分からない。この頃、彼の周囲ではある噂が流れていた。羽化した子供たちにまつわる、不穏なものだ。


"蝿やゴキブリになった者は、強制的に劣悪な環境で働かされるらしい。"


 はじめてその話を聞いた時、暮はまさか、と受け流しそうになった。自分たちの日常にそんなことがあっていいものかと。

 しかし、実際に彼らの教室はぽつぽつと虫食いのように空席が目立っていた。羽化する前は騒がしかったアイツが、今は全く登校しない。言われてみれば不自然だ……。暮の背筋に粟が立つ。まことしやかに語られる噂そのものにではなく、欠席を続ける生徒が続出しているにも関わらず、至って異常のないように見せかけられている日々の奇妙さに恐怖を覚えたのだ。


 ウカは綴った。イツボの本懐はおそらく蝶の誕生ではない、何かしらの計画がある、と。彼の言葉は少しずつ真実味を増しているように思われる。あの優しかった研究者は何を見て、何を考えていたのか。百籠の現状を探るため、暮はまたイツボのいる図書館へ向かうことにした。


 道の途中、点きはじめた街灯を背にして歩く暮の目の前を、白く大きな蛾が横切った。翅の色に導かれ、蜜と蝶の採集に出かけた日のことを思い出す。


 僕らが最終的になるもの、それはなるべくしてなったものだ。


 少し前の自分が放った言葉は、今では残酷な響きを持って反芻させられる。あの時の友人たちに残されていた可能性は皆踏み砕かれ、ただ僅かな空虚のある現実を直視して歩かなければならなくなった。脚光を浴びるほど、影は強くなる。彼らのやるせなさを想像する度に、暮の胸は痛む。

 しかし、彼は知っている。操の優秀さも、蜜の優しさも、色のいい子と言われる理由も。三人はきっと、再び歩を進めるだろう。羽化は生きる上での過程に過ぎず、終わりではない。本当の終わりは、"いのち"の終わり──白塗りの部屋に幽閉されていた、老人の姿なのだ。



 水曜の午後であるにも関わらず、図書館にイツボの姿は見当たらなかった。暮には元々読みたい本があったので、棚に整然と並べられた無数の本から目当てのものを探す。

 それは引き寄せられた、と言って良いかもしれない。迷っていた暮の指が、ある本の前でぴたりと止まる。あまり借りる人のいなさそうな、古びた本だった。目当ての本をよそにその背表紙を引っ張り出し、何ページか捲ってみて分かったことは、これは呪術について古今を問わずに広く書いた本であるということだ。


 暮は適当に本を読み流しながら、イツボに会った時に聞くべきことを頭の中でまとめる。考えを言語化する過程で思考はあちこちへと飛躍し、これまでに抱えてきた疑問が彼の脳髄を混乱させる。蝶となるのに必要なのは忍耐力と固定観念からの脱却、その言葉と度々経験した暗闇との関係や、現在、百籠の水面下で行われていること。

 点と点はすぐにでも繋がりそうだが、まだ靄は消えてくれない。曖昧な路をかき分けて何かに辿り着けそうな感覚を覚えたその時、読んでいた本のある文章に目が留まる。



『百種の蟲を同じ容器に入れ、互いに共食いをさせて生き残ったものから採取した毒を人に盛ると、相手は死ぬ』



 それはある国で行われていた呪術のひとつで、下には呪術の詳細や詳しい方法が載っている。虫を使った呪術。嫌でも精神器官を想像させ、暮は自然と地獄絵図を空に描いた。もしこの呪術を自分たちにも当てはめられるのなら、生物兵器を生み出すことも可能といえよう。



「おや、珍しい本を読んでいるじゃないか」



 大袈裟に肩を揺らして暮は本を置いた。いつの間にか彼の真後ろに立っていたイツボは普段の鋭い目つきのまま暮を見下ろし、少し片頬を吊り上げた。

 この男の視線は相手の一分の隙も見逃さない厳しさを持ち合わせているように思えるので、暮は苦手だ。ただ見られているだけなのに、今も肌に汗が滲みつつある。



「君は熱心な子供だ。毎週ここに通いつめて勉学に励む姿は見ていて快い。私は君に蝶の素質があるとみている」



 素質、と反復して顔を引き攣らせる暮。イツボはその顔を見て、思春期の子供にこのような言葉は褒め言葉ではなく、重圧にしかならないことをようやく思い出したようだ。



「百籠の誕生から約七年。君はもう十四歳か。私にはね、本来ならば君と同じ歳の子供がいたはずなんだよ」



 だからこの年頃の子供は可愛く見えるのだ、イツボは珍しく感傷的に呟いた。

 軍人だった頃の彼が屈辱的な思いをしたらしいことは分かっていた暮だが、家族との離別など、踏み入った内容は全く聞かされていなかった。同じ歳という言葉から、無意識に操の顔がちらついてしまう。暮は自分を落ち着かせながら、話題を変えた。



「百籠には優秀な人材が沢山いたと思います。しかし七年経った今も蝶は現れません。相当な実力があっても蝶となるには足らない、厳しいものですね」



 問うてから、暮の手のひらはさらに湿る。イツボが椅子を引いてゆっくり腰を下ろし、お前の話をよく聞いてやろう、というように腕を組み直すので、暮はその態度に急かされる。



「あ……あるいは、蝶となるには実力だけでなく、何か必要な要素があるのかもしれない、そうは思いませんか」


「そうかもしれないね」



 あまりにもそっけない返事だった。この時暮は確信する、ウカの綴った内容が半ば事実であることを。そして、本来聞きたかった問題を相手にぶつけた。



「最近、良からぬ噂を耳にします。精神器官によって、劣悪な環境で働かされている人々がいると。まさか、そんなことはないとは思いますが……」



 しばらくの沈黙が続く。イツボは結局、驚くべきことに、否定しなかった。誤魔化そうとする素振りさえも見せないので、暮は少し興奮した調子で彼を責めた。これが事実だとするならば、避けるべき事態である、と。

 目の前の男の片頬が吊り上がる。人に潜在する恐怖心の奥底を刺激する、奇妙で、不気味な笑みだ。暮は次の言葉にぞっとし、気がつけば己の持つ疑問の核心をむき出しにしていた。



「弱者が強者に喰われることは、至極当然のことだ」



 あなたは一体、この街で何を生み出そうとしているんですか。


 イツボへ向けたはずの声が、激しく歪んで頭の中に反響する。視界が端から暗闇に侵食されていき、ついに彼の目には何も映らなくなる。恐怖のあまり佇むことしかできない暮の意識はやがて、遠い過去の記憶、あの切なさを感じた白一色の部屋に辿り着く。


 大きな蝶が安らかに眠るその前で、白衣の男は優しく微笑んでいた。

 成長した自分と、何一つ変わらない研究者。ちぐはぐな状況であることも忘れ、暮はウカに何かを言いかけようとしたが、上手く声にならなかった。



「まだ、分からないかい?」



 昔と変わらない慈悲の篭った瞳を向けられると、自分が情けなく思えてくる。正直に頷く暮の顔を、身を屈めて覗き込むウカ。目と目が合う。



「君はとうに気づいているはずなんだ。何故恐れている暗闇に何度も耐え、この街の真相に触れなければならないか」


「……実験、ですか」



 息絶えた蝶の翅がぴくりと動いたような気がした。

 この時、暮はようやく己の本心に気がついた。分からないのではなく、分かりたくないのだ。優しくしてくれた大人が自分を子供ではなく、実験体として見ていた、ということなど。

 被験者が苦痛を繰り返し体験することで得られる忍耐力、それから百籠に対する観念を打ち破って得られる力を併せ持った時、ウカの実験は成功するだろう。しかし暮は分かりすぎてしまった。自分を取り巻く大人たちの狡猾さを。


 白の空間がひび割れ、無数の蛾となって飛び散っていく。現実に戻った視界の中心にはまだイツボが座っている。彼の視線は暮ではなく、その後ろに置いてある呪術の本にあった。


 百種の蟲たちの争い。劣悪な環境下で実現し得る地獄絵図。百籠。百種の蟲の籠。つまり、この街は、



「百蟲の……籠……」



 "気づき"と共に、それは訪れた。

 背中に鋭い痛みが走り、暮はたまらず仰け反った。血の気が引いて息ができない。苦痛に耐えかねて蹲るその背に、白い幻影がぼうっと浮き上がる。翅が、緩やかに広がりはじめた。



「やったぞ」イツボはすぐさま暮の身体を抱える。大袈裟な口調で祝福し、周囲に誰もいないことを確認すると、息を乱す暮に向けて洗脳するかのように、何度も君は蝶になったのだと告げる。



「君の翅はオオムラサキだ。百籠で最初の、誇らしい存在となった」



 しかし、困惑の最中で暮は確認していた。夕闇に染まる窓に反射している自分の翅は、紫色ではない。そこにあったのは豹紋柄の翅。



 彼は、蝶にはなれなかった。

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百蟲の籠 崎川忍 @sonyatsukimi

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