第十二話 認知

 暮の記憶の奥底に、忘れられないひとつの景色がある。

 窓のない四方が白に塗られた部屋、その中心に老人が座っている。身を屈め、それ以外の姿勢が保てないであろうことは、一目瞭然だった。

 老人の身体の半分ほどが、蝶の翅に支配されていたからだ。精神器官は、歳を取ると己の力で制御できなくなり、やがて、当人を本当にただの虫の姿に変えてしまう。そうして彼らは生命を終える。

 自室から出て老人の部屋を覗き見ている暮を見つけると、ウカは彼の頭を優しく撫でた。



「みんなこうなっていくんだ」



 その声色から、"みんな"の中に例外なく自分も入っていることを悟る暮。彼は幼いながらに、驚愕や恐怖を超えた一種の切なさともいえる感情を覚えた。それから"いのち"という言葉を聞く度に、彼はこの景色をちり、と一瞬だけ、癖のように思い出すのだった。



 暮は読書が好きだ。暇があれば百籠に建設された図書館で本を漁り、図鑑や推理小説を読む。今日の彼が手に取った図鑑には、蜘蛛の生態が写実的な絵と共に詳しく記されていた。

 説明に目を通していたその時、紙面にゆらりと大きな影がかかる。図鑑を軽く折り畳んで後ろを振り向いた先には、目つきの鋭い、大柄の壮年が腕を組んで立っていた。

 調べ物かい、と聞かれ、暮は曖昧な返事をして完全に図鑑を閉じる。水曜の午後にこの壮年とはよく鉢合わせる。百籠の主、イツボだ。視線は真っ直ぐに暮の手にある図鑑へと向けられている。



「君の見ていた毒蜘蛛の挿絵だが、見事なものだな」


「ええ。端整で美しい絵です」



 美しい、その言葉を聞くとイツボは満足げに片頬を吊り上げて笑った。暮はほっとする。相手の喜びそうな言葉を選んだのは正解だった。何度となくこういった会話を重ねている暮は、イツボの精神器官が蜘蛛であり、そのためか蜘蛛という虫を大変気に入っていることを知り得ていた。

 ある時のイツボは見てくれが煌びやかなだけの蝶よりも、抜け目がなく、糸に絡まった餌を確実に仕留めることのできる蜘蛛の方が時として美しく映る、とも話した。

 見た目よりも力。そのような考えを持っていることは暮には意外だった。蝶を生み出すための島、百籠の創始者は何よりも蝶を愛しているとばかり思っていたからだ。しかし彼は元々軍人として活躍していた身。そう考えてみれば、武力を重視するのは不思議ではないかもしれない。


 イツボが去った後、先程の笑みを思い出す。彼がああして笑う度に、暮の脳裏には、操の顔がちらついて仕方がないのだ。



 暮は成績が操、蜜、色に次ぐ上位四番であるにも関わらず、目立たない子供だ。周囲からの期待も大きいとは言えない。それはつまり、多大な重圧を受けずにいられるということでもある。彼は操たちに比べると、精神的な面では些か自由に暮らすことができていた。


 暮の教室では次々と少年少女が羽化していく。彼らはその後、将来について教師と話し合い、精神器官や成績などから進路を決める。操は百籠の警備を務める役職を、色は幼少学区の子供の保護監督者を希望しているという。その話を聞いた暮は、当然のように蜜も操と同じ進路を選ぶと思っていた。

 久しぶりに会った蜜は大人しく、凛としており、何かを見据えているようにも見えた。そして暮の予想にははっきりとかぶりを振った。



「おれは警備にはつかない。百籠の現状を知った」



 その言葉を聞いた時、暮の頭の中に存在していた点と点が一瞬だけ繋がりかけたような気がしたが、線の行く先はまだ分からず靄がかかる。

 百籠の現状。

 蜜は暮にそれ以上何かを尋ねさせる間も与えず、物々しい雰囲気のままその場を去ってしまった。


 暮にはずっと疑問に思っていることがある。

 百籠は七年ほど前に、蝶を生み出すという目的で造られた街だ。蝶は優れた教育から生まれる、という思想が前提であり、子供たちに住まいを始めとする待遇に差をつけ、向上心を煽り続けてきた。

 しかしそれだけのことをしても、百籠には未だ、蝶が誕生していない。

 約七年も指針を変えずに営まれてきたこの街に、果たして蝶を生み出す効果はあるのか。そもそも、蝶となるために必要なのは、本当に優れた教育なのだろうか。


 彼に疑問を持たせたのは、ひとつの折り紙だった。

 蜜が羽化する前のこと、暮は標本箱の下敷きになっていた白い蝶の折り紙を見つける。もうこの部屋には標本が置けないから、と言って渡してくれたウカの顔を思い出す。その長いこと放置されて黄ばみ始めている面を注視して、暮は思わず折り紙を開いた。手書きの文字が透けて見えていたのだ。


 折り紙の裏側には、見覚えのあるウカの筆跡でこのようなことが書かれていた。


"イツボのやり方では蝶を生み出すことはできない。彼の本懐はおそらく、蝶の誕生ではない。何かしらの計画があると考える。"

"これまで精神器官が蝶に決まるまでの真の過程を記録してきたが、協力者が殺害されてしまった。自分にも生命の危機がある。"


 暮は緊迫した様子が伝わってくる文面に息を呑み、最後の一行を指の腹で撫でた。



"蝶を生み出すのに必要なものは、忍耐力と固定観念からの脱却だ。"

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