第十一話 貪欲②

 季節外れの暑さはしばらく続いた。

 ある夕方にハナダは色の元を訪れた。いつも通りの当たり障りのない会話。しかし、それが二人にとってのくつろぎの時間だ。ゆったりとした沈黙が続いた後、二人のやりとりをハナダはこんな言葉で締めくくった。



「蘭切くん、いい子ね」



 言われ慣れた言葉だ。物心のついた時から、色は大人たちにずっとそう言われてきた。そのため、こんな時にどういった表情をすれば良いかは分かりきっている。分かっているのだが、今日の彼の微笑みはどこかぎこちないものとなった。

 幸いそれは相手に悟られなかったが、彼は今までの自分が厚く塗り固めてきた化けの皮が、今にでもひび割れてしまいそうな予感を察知していた。いつかは限界を超えるぞ、見ないようにしてきた借金を返さなければならない日が来るぞ……嵐の前の空のように、不吉な空気が、そこにあった。



 ハナダが帰った二、三時間後、色は薄橙の上着が机の傍に畳まれているのを発見する。何故今まで気が付かなかったのだろう。それは間違いなくハナダが置いて行ったものだ。暑いと言って脱いだまま、忘れて帰ったのだ。


 色は迷う。今から返しに行くか。それとも、後日会った時に彼女に渡すか。

 しばし悩んだ末、返しに行くことにした。ハナダがこの部屋を訪れる日は不定期だ。それに、女の衣類を部屋に置きっぱなしにしておくことは、思春期の男には些か抵抗があった。


 上着を抱え、大人の住む団地へと向かう。中学生用の男子寮から少し離れたその場所は、物静かで、どこかくたびれた雰囲気だ。

 何かあった時のために、色はハナダの部屋の番号を教えてもらっていた。まばらに点く家々の明かりがそれぞれの暮らしを表していて、同じ百籠であるのにまるで知らない土地に一人で放り出されたような心細さがあった。

 なるべく足音を立てないように階段を上り、扉の番号をひとつずつ数えていく。ハナダの部屋があった。中に部屋の主がいるか確認するために窓障子へ目をやり、彼はそして、唖然とした。


 影が二つある。

 一方の影は男。逞しい腕を伸ばし、もう一方の影を引き寄せ、蛇か獣か、無理に一体化しようとしているかのように、絡みつく。

 もう一方の影の正体は輪郭だけでも分かる。細い手足。長い髪。獣の身体の中に収まり、相手の執拗な要求を受け入れ、身を委ねている。

 二つの影は時折一つに、一つから二つに、なまめかしく変化するのだった。


 窓障子の向こうで何が行われているか理解した色は後ずさり、踵で近くに置いてある植木鉢を蹴り倒してしまう。通路にあまりにも大袈裟な音が鳴り響いた。

 二つの影は、この音でようやく能動を止める。様子を気にした女が窓の外を覗いた先には、上着を抱えて走り去る男子中学生の姿があった。


 色は無我夢中で走った。街灯が寂しく照らす夜道を、あてもなく、男子寮すら抜けて、最早自分がどこにいるかも分からずに。

 己の乱れた呼吸に混じり、彼の耳の奥では泡のように無数の"声"が反響しては消えていった。

 いい子。いい子。いい子。

 首を横に振って声を振り払い、俯きながらなおも走り続ける。自分を呪う忌々しい声と共に彼を混乱に陥れるのは、道の途中に咲いて見える派手な色の蘭の花だ。

 何故こんなところに蘭の花が咲く。それも、ただの花ではない。ネオンのように毒々しく光っている。色の世界はだんだん崩れていく。店じまいをした商店街まで走って来たところで、光はいっそう眩しくなった。


 思わず立ち止まり、光を見上げる。

 目眩がした。

 そこには二階建ての建物と同じぐらいの高さの、蟷螂がいた。


 蟷螂は蘭の花を集めて作られたような姿をしており、逆三角の顔を傾げながら、両手の大鎌を胸の前に折り畳んでぎろりと色を見下ろしていた。

 その鋭い刃の下に、一人の少女が立っている。ネオンに照らされた横顔はこちらの存在に気が付くと、一度目を見開いて、あの優しい目尻を見せた。



「姉さん」



 声にならなかった。色の喉はじんじんと痛み始め、視界が熱い涙で揺らぐ。何度も、彼女を呼ぼうとする。ユメはずっと微笑んでいる。

 ユメの瞳は自分のことを見透かすどころか、何も見ていないように思われた。ただ、微笑んでいる。人間らしさのない、何らかの偶像のようだ。

 蟷螂が虎視眈々と足元のユメを眺める。いやらしく、貪欲で、凶暴な目つきだ。背筋が粟立つ程の嫌悪を感じる。この化け物の正体を、色は受け入れたくない。だが、彼はもう分かってしまっている。


 ふと、ユメが自分の名前を呼んだ気がした。


 一瞬の気の緩みを突いて、蟷螂は行動に移す。色の正気を失った叫び声が商店街に響き渡る。姉の二度目の死だった。彼女は蟷螂によって頭から喰い尽くされた。


 その場に膝をつき、色は放心する。この幻覚は紛れもなく、彼を渦巻いていた憎悪、欲望、不安が決壊した表れだ。取り繕ってきた化けの皮も、偶像崇拝も、全て思春期という嵐にさらされて壊れてしまった。



 彼は、『いい子』ではいられなかった。



 女の声に振り返る。髪を乱したハナダが息を切らして走って来た。その時にはもう蘭の花も、蟷螂の姿も消え失せていた。



「ごめんなさいね、上着を届けに来てくれたんでしょう」



 目の前の女の顔は、先程のユメの幻影とは違って血色が見え、とても人間らしかった。自然と涙が零れる。ハナダの腕に抱き締められ、色は激しく嗚咽していた。



「オレ、蟷螂になったみたいなんです」



 泣けば泣くほど、心の中の何かが解きほぐれていく。不完全で、不格好で、不器用な自分のことを、愛すまではいかなくとも、受け入れていく必要がある。

 姉は、こんな自分に微笑んでくれるだろうか。その問いは無意味だ。ユメはとうの昔に死んでいるのだから。



 それからというもの、色は非常に冷静な性格になるのだった。

 嵐が過ぎ去った後の空は澄んでいる。いい子になれなかった自分を、諦めと呼ぶと言葉は悪いが、素直に認めて生きていこうと思えば、かえって気が楽になる。ところで、そんな彼にハナダはまだ、いつもと同じことを言う。



「蘭切くん、いい子ね」



 しかしその意味合いは前と違っている。どこか妖しげで影のある、女の台詞なのだ。

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