第十話 貪欲

 すっと品のある笑顔を作り、丁寧な言葉遣いを心がけるのは長年の癖だ。記憶の奥底には常に手本となる美しい佇まいの少女がいる。やわらかく笑う度、穏やかな物腰で喋る度に再現されるその姿は、彼自身を優しく縛りつけ、苦しめ続ける。



『いい子』



 部屋に戻った色は鞄を机の横に投げ捨て、建付けの悪い窓を無理やりこじ開けた。外から湿り気のある洗濯物の匂いが入り込み、部屋に棲むカビの匂いと混じっていく。靴下を脱ごうとしたその時、彼はあることを思い出す。

 今日はあの人が来る。


 ちょうど部屋の扉が叩かれ、気の抜けた返事をすると若い女の顔が覗いた。片手に手土産を持っている。

 季節外れの暑さねえ、などと言いながら、彼女は人の部屋であるにも関わらずくつろぎはじめた。それから世間話を経てやっと手元の菓子を広げ、色に勧めるのだった。


 女は子供たちの団地を管理する保護監督者の一人で、名前をハナダという。通常、異性の部屋を尋ねることなどないが、ハナダは色を気に入り、決まった日に彼の元を訪れるようになった。

 色もハナダを信頼しており、部屋に来ることを拒みはしない。二人は他愛ない会話をして、二十分もしないうちにハナダが帰る。あなたといると落ち着くから駄目ね、そう言われた時の色は曖昧に笑った。


 彼は今も菓子を片手に、その細い腕や白い脚、纏めた髪の生え際などを見つめていた。女性らしい唇、嚥下の際に上下する喉……

 それは、決して悟られてはいけないものだ。いい子にはあるはずのない、秘密の、危ういもの。


 ハナダが帰った後の部屋にはまだ、仄かに女の匂いが残されている。

 それまで品よく少しずつ食べていた菓子を無造作に掴み、一口で頬張ってしまう。指先を少し舐めて、先程の腕や脚などを思い浮かべ、空想し、色はそんな自分を嫌悪した。



 少し前のことを思い出す。彼は気まずさや喧嘩の前に起こる不穏な静けさというものを嫌い、その兆候が見える度に自分を犠牲にして回避するのだった。

 操が羽化するかもしれないと言った時もそう、幼い頃から身につけてきた能力が口走らせた。あの時は発言が裏目に出てしまい、操の心を追い詰めた訳だが……


 色は周囲に気を使ってばかりいる。平穏なその性格は好かれやすいが、実のところそれは自分の心の奥深くに人を入り込ませないための盾であり、本質はむしろ人見知りに近かった。


 彼の拠り所は姉のユメにある。

 大切な人が目の前で殺されたことについて、色は悲しみや自責の念よりもただひたすらに怒りを覚えた。

 その感情は今も一つの独立した魂のようにあてもなく彷徨っており、時折身体にしがみつくと、乱暴に胸の辺りを引っ掻き回して去っていく。


 そんな時、色は机の引き出しからそっと紋白蝶の髪飾りを取り出す。手元にある唯一の形見、姉の生きた証拠だ。


 あなたは蝶になるのよ。


 畳の上に寝そべり、あの真剣な眼差しや、手のひらの柔らかい感触を回顧する。この世のあらゆる宝物より美しく、女神より貴く、聖母より優しい、永遠の少女。彼はこの形見を握っている時だけ、姉による抱擁を受けているという錯覚を覚え、幼い頃の自分に戻れるのだ。

 充足感が全身を包み込む一方で、確かに肌では感じ取っている。消えてしまったことで神格化された姉の時間が、自分と一緒に進むことは絶対にないのだと。

 彼女への信仰心が歪んだものであっても、それを正すものはどこにもない。ユメはいない。残された人間の解釈と希望が全てだ。色の持つ高揚や背徳は昇華の仕方も分からず、陶酔の中に溶け込んでいく。



「なれるよね。だってオレは姉さんの弟だもの」



 愛しげに、色は髪飾りに口付けをした。



 しかし、最近の自分の猥雑さとはどうしたものだろう。優しくしてくれる歳上の女に劣情を抱くだけではなく、学友の細かな行動や言葉に嫌悪を感じ、攻撃的な感情を心のうちに秘めることも多々ある。

 色は僅かに失望していた。それでも自分とはこんな人間なのだと受け入れることはまだ難しかった。受け入れてしまえば、操や蜜が羽化した今、誰よりも期待されている蝶への羽化に酷く遠ざかるような気がするからだ。


 彼は蝶にならなければならない。繊細さに欠け、粗暴で欲深い自分を封じ込み、若くして失われた少女の再演をしなければならない。

 近ごろは声が出にくくなり、常に風邪を引いたような声だ。二つに分けられた前髪からかつては女の子みたい、と言われた顔が伺える。鏡を見る度、自分が大人の男になっていくことを自覚する。色は成長の証を恨むように、自分の顔を睨みつけた。

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