第九話 暴虐②

 それから蜜は、よく父のことを思い浮かべるようになった。暮によって誘発されただけではない。今は操について、あまり考えたくなかったのだ。


 昔の記憶とはよくできたもので、全てが暖かい陽だまりのように思える。今の自分にはないものを全て持っている。

 陽だまりの中から、父の手のひらが差し出される。優しい人になりたい。父のような優しい人に。その手を掴もうとした時、自分が煤のついたバットを握っていることに気がつく。だから、彼の手を握り返せない。そんな幻覚が彼を襲った、夕景の公園前。途端に現実へ引き戻される。


 振り返ると、一人の男が立っていた。こちらを見下ろす陰険さの滲み出た目、歪められた口元。蜜の肩を叩いたのは間違いなくこの男だ。彼のことはよく知っている。相応に年をとっていたが、その顔つきだけは今だに変わらない。


 ヤツザキだ。



「残念だったな、お前。何って、友達だよお前の。首席の奴よ。蜘蛛だってよ。何のための優秀さだったんだ」



 彼も両親が逮捕されてから百籠に送られていた。今までずっと蜜のことを恨み続け、ラジオを聞く度に彼を妬んでいた。

 そして操が蜘蛛に羽化したこと、そんな操が蜜にとっての親友であることを知り、今、肩を叩いたのだ。



「あれだけ期待させておいてあの様だ。最初から駄目な奴だったんだ。お前もそうだよ、蝶なんかになれはしない。あいつと同じように期待はずれと批判されて、終わりだッ……」



 その頬がめり込む。

 地面へ崩れ落ちるヤツザキが倒れ込む間も与えずに胸ぐらを掴み、それでも収まらず馬乗りになって、蜜は彼を殴り続けた。周囲にいた女の悲鳴が響き渡る。多少の喧嘩には慣れっこの小学生も、その場から逃げて二人を遠目に見はじめた。


 蜜の頭の中を、不快な羽音が反響する。自分のやっていることが分からないのに、やけに冷静な気分だ。自分ではない何かがこの醜い塊を打っているようだ。


 羽音は徐々に大きくなっていく。組み敷いていたものが人でないものに変わっていることに気がつき、頭が真っ白になる。そこにいたのは巨大な蜂。ぎょろりと向いた目に思わず仰け反り、手をつく。

 形勢逆転となった蜂は今にも襲いかかりそうな姿勢で蜜を脅す。道にはバットが転がっていた。


 嫌な予感がした。触れるな……と、味方であるはずのそれに囁かれているような。蜂はじりじりとこちらに詰め寄る。彼はバットを手に取ってしまう。その瞬間、左腕の包帯が筒のようなものに変化し、彼の腕とバットをすっぽり覆い隠した。


 螺旋状の円錐。鋭利な先端。

 いつの間にか羽音は自分の背中から聞こえている。


 騒ぎを見た男数人が駆けつけ、蜜の身体を取り押さえた。一方では気を失っているヤツザキの介抱をし、二人は遠ざかっていく。

 大切な人を馬鹿にされたことへの憤りは、正義感とよく似ていた。しかし、確かに背負っていた正義のようなものは肩を降りて、行き場のない感情だけがここに残っている。自傷のようなものだ、誰のためにもならない。


 次の日、学校で別室に呼ばれた蜜は教師の前で包帯を外した。目を瞑り、左腕に力を入れると攻撃的な色をした円錐が現れる。優しい蜻蛉でも、美しい蝶でもなく。



「蜂になりました」



 彼は、『優しい子』ではいられなかった。



 公園の隅で置き去りにされたバットが蜜を待つ。当然、今は拾い上げても何も起こらない。子供たちが傍で野球をしている。小さな身体、無邪気なその目。あの頃の自分は何者にでもなれる気持ちだった。彼らをかつての自分と重ねて見ると、少々残酷な気がしてくる。

 いつの間にか、蜜の隣には色が座っていた。同じく子供たちを見つめ、暗がりの中にいるような蜜の顔をあえて視界に入れない。

 誰に向けてでもなく、蜜は呟く。



「なるようにしかならないって、本当だな」



 手元のバットは時間が経つと共に汚れてきた。変化を拒むことはできないのだろう。憧れや疚しさなどを抱こうと、それは全てを覆すようにしてやって来る。理想の形になれなくとも彼は生きていくしかない。偶然か、必然なのか、知る人もいないまま。



「おれ、優しい人になりたかったんだ。いつの間にか、こんな奴になってたけど」


「なんで?蜜は優しいよ」



 さも当然のように返される言葉。色はやっと蜜と目を合わせた。そして再び子供たちの方を向く。



「昔、オレを庇ってくれたじゃない」



 あっけらかんとした彼に調子を狂わされ、蜜は強ばっていたその顔を少し綻ばせた。さらに、それからと言葉は続く。



「いっちゃんの言葉だけどさ。きっと、蜜やオレたちのことを言ったんじゃないよ。いっちゃんに何もないなんて、そんな訳ないじゃん」



 今の自分には分かるかもしれない。羽化する前に対峙する、目を背けてきたものとの葛藤。その間に現れた黒い感情に、操は取り憑かれてしまったのだ。

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