第八話 暴虐

 土管に座り、煤のついたバットを肩に担ぐのは左腕に包帯を巻いた少年。明るい色の髪は顔の横の部分だけを伸ばし、前髪は真っ直ぐに切り揃えている。


 少年に二人の男が声をかける。少年と同じ学生服の中学生だ。彼らの目を見た瞬間、琥珀色の瞳が鋭く光る。何かを察知した。

 二人は一瞬だけ怯み互いの顔を見合わせたが、軽く頷いて一人が一歩を踏み出す。



「お前、十六沢蜜だな?」



 もう一人が後ろ手に持っていた鉄パイプを差し出したことで、強気になったようだ。男は受け取った武器を少年に向け、悪者を演じる役者の如く大袈裟な調子で彼を脅しはじめた。



「お前は俺たちがここらで何と呼ばれてるか知ってるか?」


「ああ、知ってるぜ」



 少年の言葉にニヤリと笑みを浮かべる男。しかし、その後放たれた一言で彼は少年に鉄パイプを振りかざすことになる。



「井底の蛙だろ」



 口元や鼻を押さえた男二人が、操を横切り走って行く。彼らの足元には血が点々と落ち、周囲にいる小学生が「またケンカ?」などとひそひそ話している。

 バットを担いだ少年は、操を見つけると先程のことなど無かったような無邪気な顔を見せ、遊びに誘った。傾いた陽が土管を照らす。今日のような出来事は、彼らの放課後としてはよくあることだ。



「いっちゃん、野球しようぜ!」




『優しい子』



 野球しようぜ、蜜は口癖のように言う。自分がそういって誘われた日のことをよく覚えている。八丁目のガキ大将が今も彼の憧れだ。いつもあの高い背を見上げて生きてきた。これからも、その感情は揺るがないと思っていた。

 蜜は自分よりも上に誰かがいないと目指すところを見つけられない性質を持っている。成績は上位二番だが、一番が操だというのならば構わない。どこまでも操を信じていた。彼のような冴える頭脳、逞しさ、自分にとって損害となるならば時に残酷ともいえる行動をとる決断力、それらが自分に必要だ。



 蝶の採集をするため、暮と蜜は百籠の小さな雑木林で網を振り回していた。ようやく網に蝶がかかる。暮が一番欲しがっていたオオムラサキだ。歓喜のあまり叫ぶ暮に蜜は思わず笑ってしまった。


 蝶の入った籠をぶら下げ、濃くなっていく街の陰を踏みつけて歩く二人。道にぽつぽつと灯る街灯には地味な色をした小さな蛾がたかっている。暗がりを避け、光をがむしゃらに求めるだけの悲しい生き物に見えた。

 籠の中の鮮やかな翅を眺めながら暮が呟く。



「なるようにしかならないって、色が言ってたけど」



 暮の横を白い蛾が飛び去って行った。彼の胸の辺りから天へ向かうその様は魂のようで、不気味で、蜜は少しどきどきする。



「その通りだと思う。僕らが最終的になるもの、それはなるべくしてなったものだ。例えばこいつが蝶になったのはきっと、そう、そういうやつなんだ」



 逆光になった相手の顔色を伺うことはできない。蜜は目を逸らす。ふと父の顔を思い出した。

 その昔、彼のようになりたいと言った無邪気な自分と、ぴんと翅を広げた標本箱の蝶。


 蜜の顔つきは年を重ねるほど父から遠ざかっていく。父ゆずりの明るい色のくせ毛や琥珀色の瞳を持ちながら、目つきは非常に鋭く周囲に威圧を与える。

 父のことは今でも尊敬している。なるべくしてなったもの。暮の言葉が胸に残るのは、今の自分の姿と父の影が似つかなくなっていることに、どこか罪悪を覚えているからではないか。


 次の日の放課後、操が羽化するかもしれないと告げた。

 三人の間に緊張が走ったが、色の「いっちゃんは、蝶になるよね」という言葉に蜜は安堵する。思い返せば、当然のことだ。彼が蝶にならなければ誰がなる。二人はそれぞれ頷いた。

 目標としていた人物が、羽化を経てようやく完全な形となる。教養も器量もある操が全ての人に認めてもらえる日がやってきたのだ。蜜はこれまでのことを思い出し、彼をただ純粋に褒め称える気持ちで言った。



「いっちゃんには何でもあるもんな」



 操は一瞬弾丸をくらったような顔をし、それから蜜の瞳の向こうを見つめながら、ゆっくりとその表情を歪めていった。古傷を見下げて恨みを露わにする、というような、蜜の見たことのない顔だ。



「俺には最初から何もなかった。その身から全て奪われようと、最初から与えられないよりはましだ。そうだろう?」



 そして訪れる予期せぬ事態。立ち竦む蜜。

 これ以上知ることはないという程に知り尽くしていたはずの人物が、他人に入れ替わった瞬間だった。蜜は彼をずっと追いかけていたので、自分と操が同じ境遇にいる錯覚をしていた。しかしその実は全く違っている。


 蜜には自分を愛してくれた優しい父や母がいた。操は生まれた時から一人で生きていくしかなかった。


 蜜の頭の中に反響する、"俺には最初から何もなかった"という言葉。それは何日経っても消えてはくれない。

 公園で力なく項垂れている姿を見つけた暮によって、蜜は団地へと引きずられていった。暮の部屋にはやはり大量の標本があった。先日捕獲したオオムラサキが、机の上で翅を広げたまま留め針に刺されている。



「標本の作り方は、すべて蜜のお父さんが教えてくれたんだ。ウカ先生、僕なんかよりずっと多くの、珍しい蝶を持ってたな」



 暮の手にはひとつの折り紙が握られている。蝶の形に折られた白い紙だ。



「先生の話を聞かせて欲しいんだ。何でもいい、話せる範囲でいいから……」



 蜜は言葉に詰まり、標本箱へと目をやった。中の蝶は宝石のように大切に守られている。飛べないけれど、翅が傷ついたりしないから、ずっと綺麗でいられるんだよ。そう言った父の顔は何よりも優しく、儚かった。

 彼が知るのはその顔だけだ。自分の父がどんな思想を持って生き、本懐を抱えたまま死んでいったかは知らない。



「お父さんは、精神器官の研究家だった。部屋には難しそうな本が沢山あったし、研究は大変なものだったと思う。でも、おれは何も知らないんだ。優しい人だということしか……」



 暮の顔に影がかかる。二人はしばらく俯いていた。折り紙が机に置かれた時、目と目が合う。薄く笑って、暮が何かを誤魔化したようにも見えた。

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