第七話 欠落
俯瞰すると、彼の人生は網のような姿をしている。
地道に紡いできた努力が一分の綻びも許さず巣となり、その中心に彼は鎮座している。
誰もかもに期待されていた。羨望の眼差しを受けていた。完璧な少年は報われるはずだった。
『優秀な子』
操は鏡を向く。
中学生にしてはよく発育した体格、短い黒髪、切れ長の目。
顔を洗い、学生服に着替え、食堂へ向かう。食事を受け取って腰を下ろすのはいつもの席。蜜、色、それから暮が少し遅れて周りの席についた。
四人は他愛ない会話をする。彼らにとって触れたくない話題は自然と避け、ここ最近はいつも通りを演じているかのようにさえ感じられる。自分の人生の分岐点はいつ訪れるか分からない。明日どころか今日かもしれない。そんな靄のかかった恐怖を突きつけられながらも、この年の少年少女は知らない振りをするのが上手かった。
しかし流石に食堂で流れていたラジオから自分たちの名前が聞こえだすと、四人の間に不自然な間が訪れる。まず蜜が席を立った。盆を持って遠ざかるのを目尻で見届けた色が「蜜は少食だなあ」と呟くことで、空気は元の自然さを取り戻す。
四人が食堂を後にしたところで、ノイズ混じりの音声が昨日や一昨日の発言と同じことを繰り返した。
優秀な者が蝶となる。蝶となるのに必要なものは優れた教育である、と……。
操は幼い頃から"いっちゃん"という愛称で呼ばれている。これは苗字の頭文字から取ったものだが、彼の周囲はそれ以上の意味を込めて愛称を使っていた。
何事においても一番である、彼への賞賛。憧れ。彼ほどに一という数字が似合う人間はいない、特に蜜はそう思っている。
大人からの期待も凄まじいものだった。百籠という新たな常識を作った地で、現在最も注目されている少年。彼を知る大人は時に好奇の目で彼を見た。また、優秀であるという理由で彼を妬む者もいた。
しかし彼は一向に構わない。注目されていることも、全ては自身の努力の結果であることを冷静に感じ取っていたからだ。なお、彼はまだ上り詰めようとしている。百籠の求める究極、蝶という存在に。
ところで、イツボは言う。成績のみが優れていても蝶になれるとは限らない。優れた頭脳や肉体の他にも性格、思考、生き方、全てが蝶にふさわしくなくてはいけないと。
優秀な人間とは。操は努力の合間に時折考えた。鏡に写るのは相変わらず、体格がよく目つきの鋭い少年の姿だ。
蝶にふさわしい人間とは、本当に自分か?
この背に美しい翅が生える様を想像できない。
そう思えば思うほど、かえって努力を辞めるわけにはいかなかった。
彼はそれ以外の方法を知らないのだ。他人に認められたのも、力を得たのも、全ては努力の賜物で、努力しなくては何も無くなってしまう。彼は一の字が似合う人間だが、その後ろには零しかないことも承知していた。
百籠はとにかく優秀な者が蝶になれる、の一点張りで、その定義は曖昧極まるところだ。しかし大人が蝶を求めるのなら、彼はそれに応えようと努力する。
そこまで彼が必死なのは、彼の中に努力だけでは補えない欠落が生じていることを認知しているからだろう。日に日に焦燥が増していく。それを実力でひれ伏させようとする。その繰り返しだ。
幼い頃、いつものように友達を引き連れて公園で遊んでいた。
仲間に入りたがった色が女の手に引かれて行った。
その時、自分の仲間とあの女を交互に見つめて何かを考えたはずだ。
蜜は無邪気にどうして行っちゃったのかな、なんて言っていた。
自分より高い位置にある大きな手なんか、握ったことはなかった……。
努力で買えないものがあるのだとしたら、もしやその正体はあれなのかもしれない。
操の身体は動かなくなっていた。
四肢を白い糸に縛られ、その先で蠢く巨大な八本の脚を捉えた時、自分が悪夢を見ているのだと気づいた。
やけに感触が現実的だ。それに自分の過去を不躾にまさぐられるような不快感。物分りの良い彼はもう勘づいてしまった。そして、行き場のない怒りを覚えた。
目の前の蜘蛛は嘲笑う。これまでの努力で得てきた地位、栄光、友愛を。さらに、これから差し迫る絶望を、彼が唯一補うことのできなかった欠落をありありと彼の前に差し出してみせた。嗚呼、これは自分の投影だ。彼は自分を睨むことしかできない。
強靭なようでお前はこんなにも脆いのだ、蜘蛛は勝ち誇る。一の数字が本当に合うと再認識する。その実、孤独感という欠落をどうすることもできない、ひとりぼっちの人間だ。
激しい頭痛と共に目が覚めた。
手足の末端が冷え冷えとして、嫌な汗をかいていた。操はいつも通り顔を洗い、着替えて食堂へ向かう。
視界に現実味がない。まるで空っぽの自分を俯瞰して見ているような、後ろに見ないようにしていた不気味な自分がいるような感覚を抱え、蜜たちと学校へ歩く。そのうちに三人が何も知らない赤の他人に思えてきた。こんな奇妙なことは初めてだ。
自分の奥深く、底から湧き上がるものを認知してしまった朝に、彼はいつもなら気にしない五号校の方向を眺めた。同じ学生服を着て登校する生徒たちと自分の何が違うというのか、そんなことまでぼんやり考えてしまう。
放課後、頭痛はさらに酷くなっていた。
今日の授業を終え、廊下を出てすぐのこと、自然と集まってきた三人のうち色が操の様子に気づく。
頭痛がするという操を心配する三人。操は少し迷ったが、自分はもうすぐ羽化するかもしれないと告げた。
三人の間にラジオ音声が自分たちの名を呼んだ時と同じ間が訪れる。互いが互いの顔を見合わせ、言葉を探す。それから、笑顔を貼り付けて「でもいっちゃんは」まず先に場を繕うのはいつも色だ。
「いっちゃんは、蝶になるよね」
それを聞いた二人が頷く。
呪いのような言葉だ。約束されているような未来だった。操はもう、片頬を吊り上げて笑ってしまっていた。周囲の期待。幻聴が囁く。お前は期待はずれの人間だったのだ、と。
雷鼓のような頭痛と幻聴の中、蜜のある言葉がすっと頭の中に入ってきた。
「いっちゃんには何でもあるもんな」
そうだ。自分は努力をしてそうであろうとした。常に一番であり、何でも持っている人間だ。
しかし、では、他の三人が持っていたかつての家族や、家族代わりとなってくれた親しい存在、生まれた時にあったものが自分にだけないという事実は、なぜ今さら欠落となってこの生き方を揺るがしている?
なぜ補えない? なぜ報われない?
なぜ一は後退すると零になる。
彼は頭を抑え、自嘲を宿した瞳で蜜を見る。もはや相手の顔など映ってはいない。
「俺には最初から何もなかった。その身から全て奪われようと、最初から与えられないよりはましだ。そうだろう?」
その瞬間、殻は破れた。
八本の脚がはち切れんばかりの勢いで飛び出し、彼の下半身を覆い隠す。
その場にいた誰もが立ち止まり、彼を見る。黒い、幾つも連なる関節。間違いなく、蜘蛛の姿だ。
二人の教師が遅れてやって来る。どんどん膨れ上がる野次馬の間を縫い、操の元に着くと歩けるか、などと聞いて彼の両脇を抱え、周りの生徒を退けながら去っていった。
残された三人は目を見開いたまま、その場を動けなかった。そんな彼らの耳に、廊下で飛び交う言葉の数々が入り込んでくる。
あの出雲が?
学年首位のあいつが何故?
大人にとっては期待外れだっただろうな。
彼は、『優秀な子』ではいられなかった。
数日後、操はイツボに呼ばれ、会うことになる。
床を見つめて受け答えをする操に、イツボは軽い調子で「蝶になれなかったのは残念だが」と言った上で、窓の外のコンクリートでできた巣を満足げに見渡した。
「君は変わらず優秀な子だ。それに……蜘蛛として生きるのも、悪くないものだよ」
視線を上げた操とイツボの顔にかかる影は、不思議とよく似ている。イツボはそのことに気づいたのか、片頬を吊り上げて笑った。
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