第四話 火炎

 蜜はある日、父に仲良くなった操の話をした。誰よりも逞しく、強く、友達思いの友人なのだと。

 それを聞いたウカは自分のことのように喜んで、素敵な友達ができたんだね、と言った。蜜は嬉しくなり、噛み締めるように頷いた。

 でも、と蜜は続ける。



「公園に来た子が遊びたそうにしてたのに、駄目って言われたみたい。どうしてだろう」


「それは……」



 ウカの言葉を遮ったのは、彼の部屋に流れていたラジオの音声だ。注目を集めている百籠について、毎日同じような言葉で概要を繰り返している。

 百籠計画は遂行される。抵抗も虚しく、既に円形のあの島に人が入り、イツボの思うままに建設が進められようとしている。


 彼は研ぎ澄まされた刃のような感情を決して息子の前では見せまいと、理性で抑えつけた。しかし貼り付けた笑顔には影が落ちている。



「……それは、君たちも、その子も、互いをよく知らないからさ。本当は気が合うかもしれない、仲良くなれるかもしれない。だから相手を知ろうと思うことが大切なんだ」



 蜜には言葉の意図がよく理解できなかった。ただ、父の背にある無数の資料や展翅した蝶の標本がその言葉の証明であるかのように、夕日を受けてきらきらと輝いていた。



 蜜は毎日のようにバットを握っていた。最初は全くできなかった素振りも操の指導で上達し、それだけ本人は熱心だった。バットは幼い子供が持つには長いので扱いづらかったが、蜜はこれが好きだ。自分にとって憧れの大将が担いでいるもの、無理をしてでも握っていたい。

 操はそんな彼を見て、バットを貸してやると言った。



「大事なものなのに……いいの?」


「お前だけな。遊ぶ時に必ず持って来いよ、皆には内緒だからな」



 内緒、彼の言葉を繰り返して蜜は微笑む。これが操と蜜が最初に交わした約束だ。そして交わしたこの約束が、明日も明後日も二人で遊べることの証であることを悟った。


 しかし、彼にそんな明日や明後日は来なかった。彼の家はあっという間に火に包まれたのだ。



 夕方の出来事だ。

 騒がしい物音がして開けられた襖の後ろには焼け焦げていく書類や棚、そして標本が覗く。


 火は家中を巡り、三人家族の団欒の間を地獄絵図に変えていった。ウカは未知の状況に身動きがとれない息子をどうにかして逃がそうと抜け道を探す。まだ燃えていない場所がある。

 火が移らないうちにはやく逃げるんだ、と焼け始めた喉から声を振り絞ることしかできないのは、彼の半身がもう倒れた家具の下敷きになって逃げられないからだ。妻の姿もない。蜜はお父さん、お父さんと叫びながら彼を助けようと試みる。火を避けながらも父に細い腕を伸ばす。



「逃げろ!」



 聞いたこともない声に肩をびくつかせた瞬間だ。伸ばしていた彼の左腕の上に、燃えた標本箱が直撃する。


 この標本箱が視界からウカを奪い、蜜を決心するところまで追い詰めた。焼け爛れる左腕を庇いながら、彼はまだ火の迫っていない出口を目指した。長い道のりだった。涙でぐしゃぐしゃになった視界の先に、火の粉を払いながらこちらの様子を伺う大人が見える。彼らの腕に抱かれた時、蜜は意識を失った。


 バチバチと鳴る火の中、ウカは遠ざかる小さな足音を聞いていた。さらに遠くからは騒ぎ立てる人の声、こちらに安否を問うような声もする。

 朦朧とする意識で思ったことは死ぬことへの悲歎でも、幼い息子を遺してしまうことへの無念でもない。彼には完成させなければならない資料があった。十六沢ウカが最も大切にしてきたものは、研究だったのだ。



 その後の蜜に待っていたのは地獄の日々だ。

 彼はウカの研究所で共に研究をしていた、ヤツザキ夫妻に引き取られた。夫妻には蜜より一つ年上の息子がいるが、彼は蜜に殴る蹴るの暴行を加え始める。

 その背景には夫妻がいた。見て見ぬふりをするどころか、息子に暴力を推奨している。妻は時々ヒステリックになり、「私たちにはああするしかなかった」と泣き喚くのを、夫が慰めていた。


 暴行は日に日に激しくなった。数か月ほど経った頃、蜜は外を出ることもできないように監視されていた。

 ある日の蜜は息子によって部屋から引きずり出され、頭を壁に打ち付けられた。相手は非常に苛立っている様子だ。



「今、俺たちが大変なの、知ってるか?」



 彼の前では出来るだけ抵抗しない方が良いことを覚えている。何も言わずにいると胸ぐらを掴まれ、憎悪の篭った視線を向けられる。



「元々は全部お前の親のせいだ、父さんと母さんが疑われてるのも、俺まで白い目で見られるのも! 死んじまえば良かったんだ、お前も親と一緒にな」



 胸ぐらを掴んでいた手が伸び、細い首筋へと回され、小さい身体は床に押し付けられた。

 死ね。

 その一言はいつも聞く質の悪い罵倒とは違って、激しい感情が込められている。本当に死んでしまうかもしれない。しかし痣だらけのこの身に何が出来るのか。このまま死んで父の所へ行ってしまった方が幸せかもしれない、その手は幼い子供にこんなことまで思わせた。



「違います!」



 手は遠くで響いた声に緩められる。急に息を吸い込み、むせている蜜をよそに、息子は母のいる玄関を振り向いた。家を訪れた男と母、そして父の声が入り混じって口論になっている。



「私たちはやってません! 聞いてください!」



 訪れた男は数人いるようで、大人しくしなさい、などという声も聞こえる。

 なんだ……? と呟き、ゆらゆら歩く息子の脳裏に一つの可能性が過ぎる。その時、彼の頭は吹き飛びそうなほどの衝撃を受けて、たまらずその場に倒れ込んだ。


 悶絶する息子の耳に、ずるずると何かを引きずる不吉な音が入る。木製の、煤のついたバットだ。それを再び振りかざすのは先程まで散々いたぶられていた、華奢な身体。


 待て、待ってくれと懇願するも蜜の手は止まらず、二度、三度……息子は起き上がれなくなるまでバットで殴られた。助けは来ない。ヤツザキ夫妻はその日、放火の容疑で逮捕された。



 その後……

 左腕に巻かれた包帯と、その手に握られる、煤に汚れたあの日のバット。琥珀の瞳に昔の優しさは消えて、燃えるような憤懣と狂気を宿している。



「いっちゃん、久しぶりだな!」



 変わらず日常を送っていた操たちの前には養護施設の新たな仲間として、少年蜜が現れた。

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