第三話 遂行

 勝手に行ってはだめよ、と少女が弟の手を引いて公園を後にする。



「なんで駄目なの?」



 弟の少年は五歳の幼い子供で、蘭切色らんぎりいろという。十も歳上の姉、ユメを敬愛しているので大人しく言う事を聞くが、ユメがいつも公園に集まる少年たちと遊ぼうとするのを許さないことに単純な疑問を抱えていた。



「私もあなたにいろんなお友達ができたら嬉しいなって思ってるの。でも、お母さんがここの子たちは駄目って……」



 ユメは言葉を詰まらせた。

 彼女はこの国では珍しい蝶であり、その所作や振る舞いは蝶を彷彿させる優雅なものだ。もちろん振る舞いだけでなく優しい性格、明晰な頭脳、気品溢れる佇まいの全てが蝶の翅を背に持つにふさわしく、彼女の髪を留めている紋白蝶の飾りがそれを誇っていた。


 そんな人間なので、当然公園の少年たちを野蛮と言えるような性格でなく、また心にも思っていなかった。まだ十五であるユメは母の言いつけの理由を上手く説明できなかったが、代わりの答えを思いついて色に微笑む。



「ね、お家に帰ったら私と遊びましょ。おもちゃもあるし、そうね、最近新しい曲を覚えたの。あなたが最初に聴いてくれる?」


「姉さんのバイオリン?」



 きらきらと輝かせた色の目にはもう、少年たちの姿は映っていなかった。彼にとっては友達よりも姉の弾くバイオリンの音色の方が、よほど価値のあるものなのだ。



「でも、姉さんのバイオリンを誰よりも早く聴いたら怒られちゃうかも」


「あら、どうして?」


「みんな……姉さんの方が好きだから……」



 色はユメ以外の家族に冷たく扱われていた。彼には母の愛人の子であるという疑惑が浮上していたからだ。


 蘭切家は先祖に蝶が多いことで裕福な暮らしができており、ユメ自身も研究機関に協力するなどして家庭をさらに豊かにしている。

 そのため現在は蝶の彼女に支えられていると言っても過言でない家族は、ユメを腫れ物に触れるように扱い、彼女が色を大切にすることを咎めることはできなかった。色はユメに生かされていたのだ。


 ユメはその場にしゃがみ、同じ高さになった弟に真っ直ぐな瞳を向ける。



「今はそうかもしれない。けど、あなたは蝶になるのよ。蝶になって、みんなに認めてもらうの」



 いつもは優しい声が、力強く凛としたものになって色の耳に届く。



「そんな……蝶になんて、なれるかな」


「なれるわよ。だってあなたは私の弟だもの!」



 そう言うとユメはまた明るく優しい声と表情に戻った。彼女のこの言葉は色の身体の芯を通るように染みつき、二度と離れることはなかった。

 これまで皆無だった自信が、姉の「私の弟」という言葉一つで芽生え始める。姉さんの弟だから、蝶になれる。みんなに認めてもらえる。姉さんのようないい子になろう。

 それから、彼の人生をこの一言が支配するようになったのだった。


 帰りましょうと優しく差し伸べられた手を握り、帰路につく。まだ聴かぬバイオリンの新しい音色を想像しながら小さな足を弾ませていると、ユメが家の前で突然立ち止まった。握った手がじわりと湿るのを感じて顔を上げる。


 家の扉が開いている。


 それだけではここまで緊張しなかっただろう。ユメは異変を感じていた。一歩一歩重い足を進めるのは事実を確かめなければならない義務感からで、廊下の奥に見える"何か"が見間違えであって欲しいと願った。


 色は何も言えなかった。幼い子供にそれがどんな様子の何であるか断言できるほどの知識も経験もない。ただ、繋いだ手が冷えきっている。



「お母……さん」



 その手がふと我に返ったように離され、土足のまま廊下に駆け上がったユメは、血を流して倒れている母の身体を抱いた。



「お母さん、お母さん……!?」



 ただ事でないことを確信して色もユメの背中に追いつく。

 二人の母は血の抜けて真っ白になった顔を苦痛に歪めたまま動かない。恐ろしい表情を石化したように変えず、小さな呼吸さえも感じられなくなっていた。


 色は嗅いだことのない強烈な血腥さと、赤い轍が茶の間に向けて延びていることに気がつく。一人や二人の血ではない。それと同時だ、家族のものでない雷鼓のような足音がどかどかと聞こえ、こちらが意識し始めた時にぴたりと止んだ。



「まだ残ってたぞ」



 生気のない目だけを出した男二人が、道端の石でも見るような目で姉弟を見下ろした。獣などを捌きそうな手つきで持つ包丁には、血液どころか赤黒い肉片も付着している。



「早いところ帰ろう」



 男に言葉を交わす気は毛頭ない。呆然と座り込んでいるユメの右肩に手を伸ばす。物を掴むのと同じだ。

ユメは振り向いてしまう。状況の読み込めない弟に向けて張り上げた声は、色の鼓膜にこびり付いても実行に移そうと思わせはしない。



「逃げて」



 逃げて、逃げなさい。

 声は途中で途切れて細い身体が跳ねた。それでもユメは色から目を離さない。離したら、二度と弟の顔が見られなくなる。



「お願い、あなただけは……」



 白い首筋から朱色の血が勢い良く飛び出し、ほぼ空気が抜けるだけの声が最期の言葉を残した。そしてもう弟を見上げる力が入らなくなった時、優しかった瞳は赤黒い床を向いて、再び彼を見ることはない。


 引き抜いて泡立った包丁が次に向かう先は決まっている。棒立ちのまま動くこともままならない色の息の根を止めることは、"仕事"のうちに入らない程容易いものだ。男は目の前の幼い子供を殺そうとする瞬間、濁った目に安堵の色さえ見せていた。


 それが一変したのはもう一人の「もう来やがった」という言葉を聞いてからだ。人が変わったように慌てて包丁を投げ捨て、一点を見ては反対方向についた窓へ走る。家の扉へ向かうのは警察の足音だった。




「蘭切さんが……」



 黒電話の受話器を片手に愕然とする。ウカは目の前が暗くなっていくのを感じ、通話を終えた後もしばし電話の前で呆けていた。が、我に返るとすぐさま鞄を手に持ち、研究所へと向かった。


 彼の部屋の付けっぱなしのラジオが、凄惨な事件を報じる。幼い長男を残して一家が殺害されたと。犯人が金目の物を探った形跡はなく、警察は犯人の動機を調べている。


 ウカはその事件に、不穏な可能性を感じていた。


 百籠計画が固められていく中、資料をまとめ直し、なおも彼はイツボの計画に抗う姿勢を示している。しかし最近、ヤツザキ夫妻の様子がどうもおかしい。よそよそしくなり、協力的な態度も見られない。


 ウカの手元にある資料はユメの成長記録だ。彼女の情動を細かく記載し、何をきっかけにして蝶となったかがまとめられている。最後に、ユメにそのきっかけを確認させることで完成する資料だった。今ではもう、それが叶わない。


 彼にはもう一つ資料がある。暮の存在だ。

 暮が最も恐れるものが暗闇だ。ウカはそれを知ると彼に目隠しをさせ、暗闇の中に閉じ込めた。一見嗜虐的に見えるこの行為が、蝶を生み出すために必要なものなのだと、ウカは確信している。


 暖簾に腕押しであっても、ウカは立ち向かわなければならない。重厚な扉、燻らす葉巻の煙。何度嘲笑われても彼は主張する。百籠の建設は無意味だと。



「蝶を生み出すのに必要なのは優れた教育、ではない……」



 ユメが蝶になったのも、優れた教育がもたらしたものではない。彼女はむしろ、世間体を気にした両親による理不尽な教育に耐えていた。さらに、弟を取り巻いている劣悪な環境を変えようと力を尽くしていた。

 ウカは蝶の折り紙を思い出す。暮はいつか気づいてくれるだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る