十年後に君がいる(恵6歳)

 初めて彼らの住居へお邪魔したのは、姉より僕が先だった。本当は一緒に行ければよかったんだけど、姉が彼らと外で過ごすにはまだ様々な段階が必要らしい。頬をぷっくり膨らまして二段ベッドの隅に体育座りをしていた姉を思い出していると、背中の蓋がパカリと開かれた。


「……なんでこんなに差し込み口が?」


 後ろから諒太さんの声が聞こえる。いま彼からは、僕の背中に多数の差し込み口が並んでいるのが見えていることだろう。僕は記録から構造図を呼び起こし、上から順番に差し込み口の種類を羅列する。


「USBポートのType-AとType-BとType-C、miniA、miniB。LANケーブル用とHDMIケーブル用。それからCD/DVD/BDが共有で一つと、SDカードにminSDカード。VHSにカセットテープ。最後はフロッピーデスク」

「こんなに要る?」

「その反応が見たくて作ったらしいです」

「それだけのために……?」


 もっともな意見だけれど、開発者はもういないから取り除くこともできない。諒太さん一つ息を吐いてから、ウェットティッシュを手に取り僕の背中にそっと近づけた。


「このまま拭いて大丈夫なのか」

「大丈夫です」

「本当に?」

「大丈夫です」

「本当に……?」

「外側も中身も、全て防水でアルコールにも強いので」

「防水でアルコールにも強い……」


 小さく呟きながら、彼はおっかなびっくりに僕の背中を拭き始めた。ぎこちない動作になるのもしかたない。メンテナンスの終了時間を計算しながら、僕は目を閉じる。

 僕が姉よりも先に諒太さんと紘さんの自宅へ訪問したのは、諒太さんに僕のメンテナンスをしてもらうためだ。孤児院の人にお願いできれば一番いいんだろうけど、みんな僕を怖がってしまって触ろうともしない。だから、仕事柄ほどほどに機械に詳しいらしい諒太さんにメンテナンスをお願いすることした。ロボットである僕は養子縁組の手続きや面接も必要ない。孤児院の人たちが、取り扱いに困っている僕をほっとした面持ちで諒太さんに預けたのはつい二時間前のことだ。


「ケイくん、拭き終わった」

「ありがとうございます」


 諒太さんと紘さんは、僕のことを「ケイくん」、姉さんのことを「メグミちゃん」と呼ぶ。まだ正式な親子になったわけじゃないし、なれると決まったわけじゃない。姉さんも彼らを「諒太さん」「紘さん」と呼んでいるので、僕もそれに倣って同じように呼んでいる。


「次はどうすればいい?」

「パソコンと僕を繋げてください。USBでもHDMIでもいいので」

「なるほど……」


 おそるおそる諒太さんはHDMIで僕と自分のパソコンを繋げてくれた。僕に中に搭載された、メンテナンス用ソフトがパソコンへ自動的にインストールされる。あとは画面に従って操作してくれれば、中身のメンテナンスは完了だ。


「……すごいな」

「何がですが?」

「メンテナンスの手順が全部詳細に書かれてる。わかりやすいし、ケイくんの構造図も入ってる」

「もしものときに、誰でも僕をメンテナンスできるように作ったみたいです」


 もしものとき、の言葉に、諒太さんはどんな顔をするべきかわからないと言わんばかりの顔をした。僕の頭をぽんと撫でてから、諒太さんはパソコン画面に向き合いメンテナンス作業を始める。彼のこういうところを姉さんは気に入ったと思うし、僕も好ましいと考えている。

 彼がパソコンを触っている間、僕がすることは何もない。なので、今いる寝室をぐるっと見回してみる。小さなチェストが一つ。クローゼットが一つ。そして、いま僕と諒太さんが座っている大きなダブルベッドが一つ。これが諒太さんと紘さんの寝床なのだろう。


「ダブルベッドなんですね」

「え」

「諒太さんは、そういうのがあまり好きではないと思っていました」

「そういうのとは」

「ダブルベッドとか、おそろいのマグカップとか」


 メディアからの情報でしかないけれど、世の中には恋人同士だろうと「恋人らしいこと」をするのが気恥ずかしい人もいるらしい。ダブルベッド然り、ペアルック然り、おそろいのマグカップ然り。明るい性格らしい紘さんはともかく、クールに見える諒太さんは気恥ずかしいと思うジャンルの人かと思っていた。諒太さんはうなじを搔くと、「自分でもそう思う」と苦笑いした。表情の割にはなんだか声は優しい。その理由がわかるほど、まだ僕は彼のことをよく知らない。

 もし僕と姉さんがこの家……正確には賃貸マンションだけれど……に住むことになったら、寝る場所はどこになるだろうと想像する。もう一つの部屋は物置になっているようだから、そこを整理するのだろうか。それともリビングに布団を敷くのだろうか。そんなことを考えていると、諒太さんが「え」と声を上げた。


「どうかしましたか」

「もうメンテナンス完了だって」

「『問題なし』って画面に出てますか」

「出てます」

「じゃあ問題ないです」

「……これ、第三者がいなくてもケイくんが自分でパソコンを触ればいいんじゃないのか?」

「気づいてしまわれましたか」


 諒太さんが、さっきとは違う「どんな顔をするべきかわからない顔」をする。「第三者の管理も大事ですので」と言いながら僕は自分でHDMIケーブルを抜いた。なんとも言えない顔のまま、諒太さんは僕からケーブルを受け取る。


「もし中の部品が劣化したり故障したりすると、必要な対処方法が表示されるんです。しばらくは大丈夫だと思いますが、精密機器も多いので一年に一度は交換しなきゃいけないところもあります」

「……その交換は俺にも出来そう?」

「さっきのメンテナンスのソフトで、交換する部品も方法も全て表示してくれます」

「至れり尽くせりだな……」


 ほっと肩を撫で下ろした様子に、僕は好印象を覚える。部品交換となればお金が掛かることぐらいは想像がつくだろう。それでも諒太さんは、自分で交換できることに安心してくれた。

 背中の蓋がそっと閉じられ、脱いでいたTシャツを着させてくれる。その拍子にぐしゃっとした髪を、撫でるように優しく抑えつけられる。どれもこれも動作がぎこちなくて、それでもこちらを気遣ってくれている行動だとわかる。きっと姉にも同じようにしてくれるだろうと思う。


「……あのさ、ケイくん」

「はい」

「さっきの差し込み口のことなんだけど」

「どれか気になるものでもありましたか」

「VHSやカセットテープって、中のデータの確認をするだけ?」

「音声再生もビデオ再生もできます」

「……ちなみにビデオ再生って」

「目から壁やスクリーンに投影できます」

「紘が楽しがりそうだな……」

「姉さんも楽しんでくれます」


 諒太さんは少し迷ったように口元を触ってから、ベッドの隣にあるチェストの引き出しを開け、奥から何かを取り出した。


「これ、再生できるかな」


 差し出されたそれはカセットテープだった。カセットのメモシール部分には年月日だけが書かれており、十数年前のものだとわかる。


「高校生のときに、紘と録音したやつなんだけど。再生するカセットデッキが壊れてしまって」

「カセットデッキがないのに、よくテープだけ残していましたね」

「自分でもそう思う」


 また理由不明の優しい声。再生できるかは試してみないとわからない。Tシャツを捲り、もう一度背中の蓋を開けてもらう。そっとカセットテープが差し込まれ、身体の中でカセットテープが動き、スピーカー機能が搭載された僕の喉から音声が再生された。


『―――お、これでいけてる? 録音できてる?』

『赤いランプ光ってるから大丈夫なんじゃないか』


 カセットテープは音質が悪い。こもっていて認識が難しいけれど、最初の声が紘さん、次の声が諒太さんだろう。


『えー、柿本紘。ぴっちぴちの十七歳です。好きな食べ物は甘い卵焼きです』

『………………』

『ほら谷も』

『……谷諒太。十七歳。好きな食べ物は和食』

『和食の中でも?』

『……だし巻き卵』

『ほえー』

『ほえーってなんだよ……』

『…………』

『…………』

『で、何話す?』

『お前が言い出したんだろうがお前が話せよ……』

「諒太さんって、旧姓は『谷』なんですね」

「つまらない話じゃなくて、そこを気にしてくれてありがとう」


 それからも、雑談のようななんでもない話が続いた。当時のドラマのこと。バラエティ番組のこと。連載中の漫画のこと。購買の日替わりパンのこと。諒太さんは懐かしそうに目を細めて録音の声を聴いている。それは、いつか僕と姉さんの両親が昔の思い出を語ってくれたときの表情にとても似ていて。

 「なんでカセットテープに録音を?」と僕が尋ねると、諒太さんは「覚えてないんだよな」と小さく首を傾げた。「確か俺の家で古びたカセットテープとデッキを見つけて、遊びで録音しようって紘が言い出したからだと思うんだが」

 そんなことを話しながら聴いていると、録音からガサゴソと物音が聞こえてくる。『飲み物取ってくる』と諒太さんの声。『あ、よろー』と紘さんの声。それから数秒沈黙があってから、再び紘さんの声が流れる。


『えーと。あのですね。谷には、ちょっと録音しみようぜ、ぐらいで誘ったんですけど。実はそうじゃなくてですね』


 その言葉が予想外だったのか、諒太さんは軽く目を見開いた。どうやら高校生の諒太さんが部屋を出ていたときに、こっそり紘さんが喋っているらしい。


『オレと谷が恋人かっこ仮になって一ヵ月になりました。谷は何をビビッてんのか、手にチューした以来オレにひとつも手を出してきません』

「ケイくん再生ストップ」

「聴きたいです」


 僕が手で罰マークを作ると、諒太さんはぐぬぬと喉を鳴らした。再生停止は僕がコントロールできるけど、いま停止するつもりはない。諒太さんには僕が六歳に見えて居た堪れないだろうが、僕は恋愛の作法も過程もしっかり覚えているし理解しているのだ。何かを気遣うことも恥ずかしがることはない。


『でも、それがオレを気遣ってることなんだろうなってことぐらいはわかってます』


 高校生の紘さんの声。ずっと考えていた言葉を喋っているのか、どこか台本的で、どこか優しい。


『谷。オレはそういうお前だから、お前と一緒にいたいんだと思うよ。ずっと、そう思っていられるオレでいたいよ。……そう、なれてるかな』


 その言葉の意味を、僕はつかめない。きっと、諒太さんと紘さんだけがわかる言葉。


『もしこのテープを、十年後とかに谷と一緒に聴けたら。もし、十年後も一緒にいられたら』

『すげー恥ずかしいことしてんなって谷に笑われたいし、オレも笑いたいです。そういう未来が、オレはいいです』


 声のあとに、ガチャリと扉の空く音がする。高校生の諒太さんが帰ってきたのだろう。ガタガタンッと何かが倒れる音がする。『……何してんだ?』と、呆れた諒太さんの声。


『か、カセットデッキを倒した』

『なんで』

『お前が急に入ってくるから……』

『ここ俺の部屋ですけど?』


 それからまた、何事もなかったように雑談へ。なんでもない話。明日には、普通の人間なら忘れてしまうような言葉たち。そして、『もういっか。ばいばーい』と紘さんの間延びした声で、録音は終わった。シン、と寝室が静まり返る。諒太さんは両手で顔を覆っている。


「……諒太さんはこれが聴きたかったんですか?」

「いやアイツがこんな録音残してるなんて知らなかったし本当にただくだらない会話してたなって思っただけで」

「なぜ言い訳のような早口に……?」


 そこで、今度は録音の方ではなく、現実の扉がガチャリと開いた。諒太さんの肩がびくりと震える。寝室の扉へ目を向けると、紘さんが諒太さんの様子に首を傾げる。


「あ、悪い。まだメンテナンスしてた? ノックした方がよかった?」

「お前が全面的に悪い」

「そ、そこまで言われんのかよ……」

「紘さん、今カセットテ」「ケイくんもうメンテナンスすることなかっただろうか」


 喰い気味に諒太さんに質問され、紘さんには言わない方がいいのだろうと察する。仕方なくメンテナンス事項を思い出し、「あ」と最後に残していたものを言うことに決めた。


「耳掃除をお願いします」

「みみそうじ」

「みみそうじ」

「埃が溜まってしまうので」

「なるほど……」

「あ、じゃあオレがやってもいい?」


 そわそわとした様子で、「それならオレにもできそうだし」紘さんが片手を挙げる。メンテナンスは機械に詳しい諒太さんがやるということに決まってから、紘さんが手持ち無沙汰で落ち着かない様子であることには気づいていた。きっと諒太さんも同じだろう。

 特に断る理由もなく「お願いします。綿棒が好ましいです」と小さく頭を下げると、紘さんは嬉しそうに頬を綻ばせた。そのままリビングから綿棒を持って来て、諒太さんの隣に座る。


「どうぞケイくん思う存分寝転がってもらって」

「目をキラキラさせるな目を」

「それでは失礼します」


 ベッドに寝転がり、横向きになって紘さんの膝に頭を乗せる。すると、ゆっくり綿棒が僕の耳の中へ入れられる。


「あ、本当だ。埃ある」

「自分の指では取り切れなくて」

「耳掃除気持ちいいですかケイくん」

「ごめんなさい、あんまりそういう感触はわからなくて」

「あれ、そうなの?」


 紘さんと諒太さんが、僕の顔をのぞきこむように少しだけ前のめりになる。そのタイミングが一緒で、こういうのも姉さんは好ましく感じるだろうなと思う。


「温度とか硬度とか重量とか、判別することはできるんですけど。お二人が感じるような触覚と味覚はないです」

「そっか。ケイくんは食事しちゃダメなんだっけ」

「はい。エネルギーに変換できないままエラーを起こしてしまって」

「……ケイくんは」


 諒太くんが、ぽつりと呟くように言う。


「メグミちゃんと、一緒に食事がしたい?」


 紘さんが諒太さんを見る。僕も諒太さんを見る。僕は答えを導くまでもなく口を開く。


「したいです」


 手が伸ばされ、額を撫でられる。紘さんはそっと僕の手を握り、もう一度諒太さんの方を見る。


「……諒太がケイくんを食事できるようにするってこと?」

「すぐには無理だろうし、何年もかかるかもしれない。本当にできるかもわからないけど」

「そっか」


 紘さんは頷き、「でも、そうだよな」ともう一回頷く。「みんなで一緒に、ご飯食べたいよな」

 今日、ここに来てよかったと僕は結論づける。

 メンテナンスはもっと先でも問題なかった。自分でも異常がないのはわかっていたから。だけど、それでも早く彼らのことを知りたかった。僕らと家族になりたいと言ってくれた人。養子縁組の手続きのために、何度も孤児院にやってきて、厳しいであろう面接を受けて、ぎこちなくても、一生懸命僕たちと関わろうとしてくれる人。彼らが本当に、姉さんを傷つけない存在なのか。僕らを受け入れてくれる存在なのか、ちゃんと知りたかった。

 姉さん、と僕は頭の中で呼ぶ。今日、ひとりぼっちで置いてきてしまった僕の姉。僕が守るべき人。この二人なら大丈夫かもしれない。この二人も、僕と一緒に姉さんを守ってくれるかもしれない。大事にしてくれるかもしれない。

 かもしれない、を取り除くには、まだ彼らについて知り尽くしていない。だけど、もっと知りたいとは思う。それが姉さんを幸せにする方法へつながっている―――かもしれないと、僕は予想している。


『―――お、これでいけてる? 録音できてる?』

「ん?」

『赤いランプ光ってるから大丈夫なんじゃないか』

「え」


 差しっぱなしにしていたカセットテープを巻き戻して再生すると、想像通り諒太さんと紘さんは目をきょとんとさせる。だけど諒太さんはハッと気づき、「け、ケイくんストップ」と僕のTシャツを捲ろうとする。


「おい何してんだ諒太」「いやだってお前が」「助けて紘さん僕脱がされちゃう」「ケイくんどこでそんな言葉を」「よし任せろケイくんはオレが守る」「バカお前」『えー、柿本紘。ぴっちぴちの十七歳です。好きな食べ物は甘い卵焼きです』「ん? これって」「結果的にお前も恥ずかしいやつなんだぞバカ」「でも紘さんは十年後に一緒に聴きたいって」「ケイくん本当にストップ」


 そのあと紘さんと諒太さんが赤面したり、諒太さんも僕の耳掃除をしたり、僕と姉さんの思い出話をしたりした。この日の記憶を、僕は決してデリートすることはないだろう。


 夕方になって二人に孤児院まで送られると、正門にはふくれっ面の姉さんが立ち塞がっていた。紘さんと諒太さん、僕は今日の出来事を隠すことなく全て話した。最初から最後まで姉さんは不機嫌そうに頬を膨らましていたけれど、話し終わった後、紘さんと諒太さんに交互に抱きしめられ、頭を撫でられ、「どんな顔をするべきかわからない顔」をした。


「大丈夫だよ姉さん」


 最後に僕が姉さんを抱きしめ、紘さんと諒太さんには聞こえないようにささやく。


「十年後、きっと笑って今日の話ができるよ」


 かもしれない、と頭の中で呟く。

 十年後、十六歳になった姉さんの笑顔を想像しながら。

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